2012年8月18日土曜日

一体何が民主主義なのか


今日の信濃毎日新聞文化面での大沢真幸さんという社会学者のデモについてのコラムがとても良かった。

今の国会議員たちのデモへの無関心さを『公共的なものへの関与よりも家への事情が優越する』からだと説き、デモの過剰警備について『ちゃんとした民主主義の下ではデモは起こらない』という日本人の常識ゆえの過剰警備に異議を唱え、『デモのような集会を開き、自由に意見を表明できることこそ、民主主義の内実そのものである』、『代表制民主主義は、こうした条件を不完全にしか実現できない次善の策である』と書いている。

その通りだと思う。完璧なシステムなんて存在しない。完璧な絵が存在しないように(たしか村上春樹)。完璧なシステムなんて存在しないからこそ、様々な揺らぎの中で補い合うのが健全な有り様だと思う。民主主義とは揺らぎそのものだろうからだ。

昨日の大雨の中、長野駅前で原発反対の声を大きく上げていたマブソン青眼さんやぼくの友人たちの声が民主主義でなかったら、一体何が民主主義なのか。

2012年8月8日水曜日

また金曜日がやってくる。


また金曜日がやってくる。


フランス出身の俳人であるマブソン青眼さんら何人かの方々が
毎週金曜日の夕方六時から長野駅前で原発再稼働反対の抗議活動をしている。
ぼくも先週、途中から参加させてもらった。
拡声器などを使うと届け出が必要なので、肉声で原発再稼働反対を訴えている。
とてもシンプルで手作り感のある集まりだ。


たまに「原発は反対だけど、デモや抗議活動したからって止まるとは思えない」と言われる。
気持ちはわかる。ぼくもそうだったし。

でも、分かってきたことはデモや抗議活動は身体の痛みを訴える大切なアクションで、
痛みの信号を受けないと治療が始まらないということだ。
人間がどこか怪我をしたときや、これ以上重いものを持てないという負荷のアラームとして痛覚はとても大切なように。


「痛いよ!」「これ以上持てないよ」という声を上げるアクションがなければ、
治療したり、荷物を降ろすという次のアクションが始まらないということだ。
デモがすなわち原発を停止したりしないけど、「痛い」と言えばすなわち病気が治るわけがないのと同じだ。
でも、「痛い」と言わないと治療が始まらない。ステップが違うのだ。


というように「声を上げること」について思っていることは
今までも人に話したり、日記的に書いたりしたけれど、今日書きたいことはちょっと違って。


発端は先週金曜日の抗議活動でマブソンさんが再稼働反対のシュプレヒコールの合間に
「私だってしたくてしてるわけじゃないんだよー」と叫んだことだ。


そのときはそのままコールが進んだけれど、当日の夜に角居さんや関谷さんと飲んでいて
「あのマブソンさんの気持ちはとってもよく分かる」と頷きあった。
「今日は遅くまで仕事で疲れたし、行くの面倒だしと思ってたんだよね」とぼくは言い、
角居さんも「おれだって毎回行くときにハードルがめちゃくちゃ高いよ」と言った。
皆、同じなのだ。


できることならこんなことしたくない。
道行く人に白い目で見られて、
近しい人からはちょっと遠巻きに見られて、
苦笑いされて。
もっと違う方法があるさと言われて。


こんなこと全然したくない。
もっと自分の好きなこと、楽しいことだけをして生きていたい。
楽しいことを共有できる人と楽しく過ごしたい。


人によって色々だろうけど、
ぼくにとって原発反対のデモや抗議活動で声を上げることは「いじめ」の構造とほぼ一緒だ。


「いじめ」という暴力現象はどのような集団活動でも起こりうることを小学校・中学校で身をもって知っている。
そして、「見て見ぬふりをする」「何のアクションも起こさない」という九割の人々の選択肢が
いじめの重要な成立条件だということも痛いほど体験している。痛いほど。


いじめた側のチームにいたこともあったし、
いじめを止めようとしてあっという間に孤立していじめの対象となったこともあった。
でも、今ぼくにとって重要なことは加害者・被害者・無関心者の三者が揃っていじめは成立するということを「知っている」ということだ。


小学生のとき、中学生のとき、ぼくはうまく出来なかった。
勇気も足りなかったし、恐怖にも耐えられなかった。
大きな声を上げられず、自分を守るために平然と見ないふりをすることも沢山あった。
助けて欲しいと胸の中で渦を巻いているのに何一つ言えなかった。
加害者であり、被害者であり、無関心者だった。


それでぼくはいま大人になっている。
また同じ局面に立っている。
無関心は暴力の成立要因だと知ってしまっている。
デモや抗議活動という声を上げるアクションが治療のために必要だということを理解してしまっている。


ぼくはどうするんだろう?
また平然と見ないふりをするんだろうか?
また勇気を出せないんだろうか?
また家に帰るまでの我慢だと思うんだろうか?
無関心の暴力性を知っているのに。理解してしまったのに。


去年の東日本大震災の原発事故を見て「ぼくも加害者の一人なんだ」と思ったあの気持ちをぼくはどう扱うんだろう?
自分が無関心者だったツケをいつ払うんだろう?
いつ勇気を出すんだろう?


ぼくはヘラヘラ笑って生きていたい人間です。
楽しいことを分かち合える人たちと会って、幸せな気分を共有したい人間です。
できることならデモや抗議活動なんて行きたくない。
ぜんぜん。
でも。


最近はそんな風に思っています。