2012年7月30日月曜日
デモってなんだろう?
「脱原発」を訴える抗議行動『7・29脱原発 国会大包囲』に参加してきました。
日比谷公園からスタートして、東京電力本店前を通り、経産省前を過ぎ、国会へ。夕方四時に出発して国会前に着いたのは六時半くらい。それから八時くらいまで国会を取り囲んで抗議活動を行いました。
http://fotgazet.com/news/000236.html
国会の包囲は歩道だけの警備設定だったため人が溢れ、二重三重に人々が国会を取り巻きました。国会正門前での抗議活動を進めるなか、狭い歩道に押し込められた人々の何人かが大きな車道に足を踏み入れ、それを機に瞬く間に何千人もが車道を占拠し、国会正門前で口々に「原発反対」「再稼働反対」を訴えました。
車道を占拠する動きに暴動や無秩序さが少しも感じられず、将棋倒しにもならず、なんて言えばいいんだろう、普通の人たちの普通の歩みのまま、ぼくも含めて道路を占拠しました。不思議な感覚だった。
参加者数は主催者側で二十万人、警察発表で一万五千人とのことですが、当事者としてはよく分かりません。実感として、自分の感覚では捉えきれない大きな渦がこの時間とこの場所を塗りつぶしていたという感じです。
ぼくは六月の長野でのデモ、そしてこの抗議行動で二度目の参加でした。ぼくはいつも行動してからその意味を考えます。考えたことは言語化します。そうしないと前に進めないのです。
ぼくは六月のデモで学んだことは「デモは意思の可視化であり、社会に意思を表明することだ」ということでした。
そして、七月二十九日の抗議活動に参加して、参加してるときも、参加した後も、ぼくはずっと「デモってなんだろう?」と思い続けました。
何千人、何万人の人々と行動を共にして、ぼくは何を学んだのだろう?と思い続けました。
「デモってなんだろう?」
この問への一番率直な返答はあの日、あの場所で起こったことであり、街を練り歩いた人々であり、街中に上げられた声であり、太鼓の音であり、ささいな諍いであり、配られるチラシであり、一定の時間と一定の機能を奪われた街であり、苛立ちを感じた通行者であり、何百人もかき集められた警察官であり、カメラと脚立を抱えて歩き回る報道陣であり、空を回旋し続けるヘリコプターであり、静かな苛立ちを積み重ねる群集たちであると思います。
デモとは正にそれら起こりうること全てがデモなんだと。
デモは何かしらの意思表示であり、何かしらを変化させる「ため」のものかもしれませんが、それは段階としては次のステップであり、デモはデモが持つ混乱そのものが存在価値なんだと思いました。
twitterでよく見かける「デモで再稼働した原発が止まるわけがない」という意見。それを見かける度にぼくの中ではモヤモヤしたものが生じました。「鉛筆でビールの栓が抜けるわけがない」というような違和感。日本語としては正しいかもしれないけれど、何かがおかしく、どこか破綻している。
ビールの栓を抜く道具は栓抜きである。
再稼働した原発を止めるのは政府であり議会である。
その意味において、デモは栓抜きではないし、再稼働した原発は止められない。
なぜならデモの先にリアルな政府も野田総理も議会も待ち構えているわけではないからだ。
「デモで再稼働した原発が止まるわけがない」
それは正しい。
でも間違っている。
デモはデモであることにおいて力を持つ。
あの街の機能と時間を奪う力が、群衆の占拠が、デモとして起こりうる全ての事象が「脱原発」の意思として捉えられ、新聞やテレビやネットなどに配信される。例えば昨日のTBSでのニュースや、今朝の朝日新聞一面や、多くのネットニュースに。一人ひとりの目に見えない意志が可視化され、社会の一要素として共有される。
デモはデモであればいいのだ。
『7・29脱原発 国会大包囲』でぼくはそう思いました。
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<最後に思ったことを>
デモはデモであればよく、そしてデモはフェスタです。間違いなく。
できるだけ沢山の人と集まり、できるだけ大きな音を出し、大きな声をあげ、できるだけ笑い声があった方がいい。ぼくはそう思いました。
『デモは「是か非か」と論議するようなものではないと思います。車が走っている限り交通事故があるように、社会がある限りデモがある、という存在の仕方だと思います』
と小沢健二が書いているように、デモは社会の一部だとしたら、ぼくたちはそれをもっとぼくたちのものとして使えた方がいい。少し遠出して水族館に行くような感じで。
今回一緒に行った角居さんがfacebookで上げてくれていますが(角居さんありがとう)、東京まで相乗りすれば五人で往復二千五百円。朝行って夜帰って来れます。練馬インターで降りて小竹向原駅そばの駐車場を使うと麹町や永田町に一本で行けて、毎週金曜の官邸前デモに便利です。
高速料金:五千百円(長野-練馬の往復)
ガソリン代:五千八百j円
駐車料金:九百円(小竹向原駅そば)
デモはどこか遠くの誰かがしているものではなくて、いつでも自分のものになるんだとぼくは思いました。声を上げたいことがあれば。
小沢健二『金曜の東京』
http://hihumiyo.net/fridaysintokyo.html
2012年7月13日金曜日
『金曜の東京』 小沢健二
小沢健二のデモへの姿勢。声を上げることの大切さ。
声を上げることに引け目を感じないように。
声をあげることが多くのことがらと
等価の価値をもっていることを信じられるように。
読めて良かった。
『金曜の東京』小沢健二
『金曜の東京』小沢健二
2012年7月11日水曜日
様々な問いの交差のひとつとして。
ぼくは七月二十八日(金)の原子力発電・議事堂前抗議活動に参加しようと思っているのですが、それについて妻から反対のメールが届きました。
彼女の考え方も分かるし、このように考える方も多いと思うので(とってもプライベートなメールではありますが…)、メールの往復書簡を載せさせていただきます。
正解なんてどこにあるのかさっぱり分からないけれど、でも今の日本のあちこちでこのメールのような「どういうことなんだろう?」「何が正しいんだろう?」「どう考えればいいんだろう?」という問いが交わされているのだと思います。家族で、友人で、会社で、学校で、見知らぬ人同士で。
このメールも、それら様々な問いの交差のひとつの事象だと思って読んでいただけたら嬉しいです。二者間での問いの往復はその問題がもつテーマを内包していると思うので。掲載は妻の承諾済みです。しかし恥ずかしいなあ。
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【妻からのメール】
私はデモには反対です。
もう次の段階にはいらなくちゃいけないと思います。
本当に15%もたりないのか。たりないのだとしたら補う方法はないのか。原発を動かさないでもし大停電になったら関西の人は怒らないでいられるのか。
何かそういうのなしで原発反対とただ叫ぶことに疑問を感じます。
野田がやらなくちゃいけないことはもっともっとたくさんあると思うけど、私が野田なら原発再開すると思います。
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【ぼくの返事メール】
>本当に15%もたりないのか。たりないのだとしたら補う方法はないのか。原発を動かさないでもし大停電になったら関西の人は怒らないでいられるのか。
これについては明確に関西電力が「原発を動かすことと電力需給は関係づけて考えていない」と大阪府市エネルギー会議でも明言しているんだよ(その場面がテレビで放送されました)。
どういうことかというと、今は火力発電をフル活動しているのだけど、それだと燃料費が高くてやっていけないから、原発を動かしたいということです。でも、それをきちんと説明していないで、雰囲気として「原発を動かさないと電力が足りない」というロジックを社会に発信してしまいました。
「原発を動すことと、15%電力が足りないとは関係ない(関係づけて考えていない)」ということを実施するように、なんと大飯原発を再開させた三日後に火力発電を八ヶ所止めています。今までの説明から得る雰囲気だと「このままだと電力が足りない。関西の人が困ってしまう。だから大飯原発を動かさせてくれ」だったよね?(ぼくも君もそんなニュアンスで理解していたと思う)それで仕方ないという雰囲気になったのに、原発が再開した代わりにコストの高い火力を止めるというのはあまりにも企業本位なやり方で、いま部分的に非難を受けています。
>本当に15%もたりないのか。たりないのだとしたら補う方法はないのか。
この問いに対して、実は誰も正しい返答をできないのです。関西電力の不足分の数値の出し方、発電運営のやり方がとうてい信用できるものではないからです。15%という数字の真実性が問えない。今の火力水力の発電力データを出されても信じられない。なぜならデータはすべて関西電力が持っているからです。それはカードゲームをやっているのに、ぼくたちは自分のカードを見ることが出来ず、電力会社だけがカードを選んでいるようなものです。そんなのルール自体が壊れているゲームです。
今の関西電力のやり方が「ギリギリまで原発を動かさないように努力するけど、命優先のためにどうしてもとなったら原発を再開させてくれ」という態度にはとても見えないし(原発稼働のための数日が必要だとしても)、「原発を動かすことと電力需給は関係づけて考えていない」とテレビ上でも明言したことについて、会社としてきちんと説明していません。それは再稼働を決めた政府も同じことが言えます。
>私はデモには反対です。もう次の段階にはいらなくちゃいけないと思います。
君の言うことはとっても分かるし、デモなんかやってる場合かというのも分かるんだけど、残念ながら、ここ数カ月の政府と電力会社のありようは全くと言っていいほど信用できるところがありません。本当に「そんなことやってる場合か」ということが政府と電力会社に沢山あります。そして、震災以後ぼくが学んだことは「政府や電力会社は積極的な嘘は言わない。ただし、言いたくないことはとことん隠し通す。騒ぎが収まったらこっそり出す」ということです。
関西電力の「原発を動かすことと電力需給は関係ない」という大阪府市エネルギー会議での明言もそうだし、大飯原発の下に活断層があることについての地層調査データも「無くした」と言っています。首相官邸前を十五万人が抗議活動で取り囲んだ時に「これをどう思いますか?」と訊ねた記者に、野田総理は「外で大きな音がしますね」と答えたそうです。これは(抗議活動と認識しない)と言っているのに等しい。無視することで物事を進めようとしているんだね。
実は日本のエネルギー政策の大きな変換点が八月末で決まるということを先週知りました。ぼくは全然知らなくて、例によって内閣府のwebサイトでこっそり上げられていたのだけど(パブリックコメントの募集)。
それによると、今後の日本のエネルギー政策において原発依存度を0%、15%(現状の半分)、25%(現状より少し減)の三択で決めるから投票するようにということでした。そんなこと知らなかったよね?ぼくも全然知りませんでした。知らないと何が起こるかというと、組織票が断然強くなるのです。それは選挙でもそうだよね。民主党があれだけ当選したのは、普段動かないサイレント層が投票したからです。サイレント層が動かないと、組織票を持っているところが安心して勝てるというのはどんなことでも一緒なんだね。
デモで原発は止まらないです。それはその通り。だけど、今のあまりにも火事場泥棒みたいな「ちょっと嘘ついてでも、なるべく原発を維持できるようにしよう」という政府と電力会社のやり方に「ふざけるな!」と声を上げること、そして「実はこうなんだよ。おかしくない?」と知らない人に知ってもらうことが、今このタイミングでとても大切なことだとぼくは思います。
原発は止められないけど、今の「おかしいぞ?変だそ?」ということを知ってもらう手段として、十万人以上に膨れ上がった毎週金曜日の抗議活動は無駄なことではないと思っています。ぼくもそれで「ん?おかしんじゃないか?」と思いました。
もちろん、「ぼくは原発に絶対賛成です」という人もいて当然だと思います。でも、今のあまりにもひどい「決められ方」、「全然信用できない人たちが決定権をもつ仕組み」、「電力が足りないということを脅迫的に使う電力会社」に対して、「おかしい!」と声を上げること、そして「実はこうなんだよ。おかしくない?」と知らない人に知ってもらうことが、八月末までに重要で、これから二十年先の日本のエネルギーの選択肢に大きな意味を持っているとぼくは思います。
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