2014年3月6日木曜日

小さい手。

夕方、七歳の息子が同級生に顔を足で踏まれて泣いたらしいと妻から電話。
いよいよ来たか。そんな兆候はあったけれど。

ぼくは子どもが生まれてから決めていたことがいくつかある。そのうちの一つが、自分の子どもが苛められるようになったら「心配だけして何もしない」ということだけはするまいということ。
あと、大人になるまで生き延びさせること。

話を聞くと相手の子がふざけての延長線上らしいが、それはあまり意味がない。
そういう人間関係や雰囲気を固定させないことが大切だとぼくは経験上知っている。

あと、相手に「いやだ」という意思を一度きちんと伝えること。

息子に電話を代わってもらい、一緒に行くから文人の気持ちを相手の子に伝えに行こうよと相談。

息子は「えええ…」「言えるかな…」「それを言ってもやめてくれないかもしれない…」と小さな声。気持ちはよく分かる。ぼくだってそう言う。

「言ってもやめてくれないかもしれない。それは分からないよ。でも、お父さんも文人くらいのときに同じように苛められて。すごくいやで。でもお父さんはその時は言えなくて、ずーっと勇気を出して言えればよかったと思っていたよ。大人になっても。今でも思ってる。
今日はお父さんも一緒にいくから、勇気を出して文人が思っていることを伝えてみない?」と電話で話す。

電話先でもじもじしている息子。
じっと待つ。
そのうちに「行ってみる」との返事。

その時点で遅い時間だったので妻に相手の家に電話してもらい、「糾弾するのではなく、息子の気持ちを本人に伝えに行きたいです」と説明しておいてもらう。

急いで帰宅すると息子はテレビを見ながら高笑い。明らかに心はここにない。緊張している。痛いほど気持ちがわかる。

緊張してる?と聞くと「うん」との返事。
「お父さんも勇気を出して言ったことないから緊張しているよ。一緒に勇気を出してみよう」と二人で車に向かう。小二になった息子と久しぶりに手をつなぐ。小さい手。

車内でも無理して明るい声で話す息子。ほんとうにこいつは小さいころの自分によく似てる。
向かう途中の車内で「お父さんは勇気を出して言ったことがないから文人がこれからやることはよく分からないのだけど、気持ちを人に伝えるってことで大切なことは知っているよ。それはちゃんと言うってこと。ふざけたり、冗談みたいに言うんじゃなくて、ちゃんと言うってことが大切だよ」と言ってみる。
わかったと返事してから息子は「ふざけないこと。ちゃんと言うこと」と口の中で復唱している。きっとやり方がほしいのだ。ぼくだってほしい。

ちょっと道に迷ってから相手の家へ到着。
息子は緊張のピーク。ぼくだって緊張する。

恐縮して出てきた相手のお母さんにまず機会をくれたことのお礼。
相手の男の子A君に自己紹介してから今日の趣旨を説明する。
A君、緊張して目がウロウロしている。気持ちはわかる。
「A君、今日はありがとう。これから文人が勇気を出して気持ちを伝えるから、それを聞いてくれたら嬉しいよ。それを聞いて、これからの君が何をしてもいいし、何を考えてもいいし、それは自分で決めてほしい。今日は文人が勇気を出して君に伝える気持ちを聞いてくれればそれでいいよ」

息子「今日、顔をふまれていやだったよ」
A君「今日はごめんね」

息子とA君のやり取りは互いに声が潤むものの、予定調和的に終わる。
きっとそれは仕方のないことなのだろう。自分の気持ちをきちんと伝えるなんて、そう簡単にできることじゃない。大人だってむずかしい。

「A君、今日はありがとう。これからどうするかは自分で決めてね。文人、君はこれから自分で勇気を出して言えるようになるんだよ」と二人に言って失礼する。A君、終わった途端にダッシュでリビングに駆け込んで母親に怒られる。気持ちはわかる。

車の中で息子、ほっとするがまだ緊張が抜けきってない感じ。そうだろうな。

帰宅してキッチンで妻に報告をしつつ、息子に今日のまとめを話す。
「文人は今日勇気を出せてとってもえらかったよ。お父さんができなかったことをできてすごいなーって思った。かっこよかった。
でも、本当はいやなことはいやだって自分で言える勇気があるといいとお父さんは思う。でも、きっとそれはすぐに出来ないことなんだと思うよ。自転車にすぐ乗れないみたいに。自転車だって何度も練習してちょっとずつ乗れるようになったでしょ。
だから、文人が小学校を卒業するまで一緒に勇気を出す練習をしよう。今日みたいなことがあって、自分の気持ちを伝えるのにお父さんが必要だったらいつでも一緒に行くよ。いっぱい練習して、小学校を卒業するまでにいやなことはいやだと言えるようになろう」

息子は目を大きくしながら「うん」「うん」と答えていたが、きっとこれからまた大変だろうし、本人もそれはよく分かっているんだろう。子どもの世界は一筋縄ではいかないのだ。

それはとてもよく分かっている。今日、自分がしたことが本当に正解かどうかなんて分からないことも分かっている。でも、きっと、ぼくはまたこうする。それだけは分かっている。

言えてすっきりしたーと言っていた息子も、お風呂に入って寝る前に「A君、おこってないかな…」と不安そうに呟いた。その気持ち、わかるぞ。痛いほど。
不安気な息子をハグしつつ、「怒ってるかもしれないよ。それは分からない。でも、怒っていて、またいやなことをされたら、またいやだって言おう。それはお父さん、何回でも一緒に行くよ」と答える。そう答えるしかない。そもそも答えなんてないのだ。

大人の方が子どもより何倍も自由だと思う。
それを子どもに伝えられたらと思う。
大人になったら自由になれるんだぞって。

それにしても疲れた。いつかはこういう日が来るだろうと思っていたけれど。


2013年9月27日金曜日

セブンイレブンには歩いていこう

昨夜、「今度からセブンイレブンには歩いていこう」と言ってきた七歳の息子。
何のことか聞くと、
「近くは歩いて、車は遠くだけにしないと肌とかがボロボロになるんだって」とのこと。
ますます訳がわからない。

さらに聞くと「ドラえもんにそう描いてあった」とのこと。
それで分かった。
きっとCO2問題かつオゾン層破壊のことなのだ。
あーなるほど。

五十年前の子どもたちは未来予想図をワクワクして見ていただろうに、
(ぼくの子ども時代も含めて)
現代の子どもたちにとって未来は失われていくものなのだ。

生への祝福などはない世界。
呪いといってもいい。
『もののけ姫』のアシタカで描いていたように、
生きるとは呪いを背負ってそれでもなお前を見つめることなのだ。
この視点を宮崎駿は繰り返し発言していた。
だからこそ、「この世は生きるに値するという映画を作るのだ」と。

そんなことを息子からの一言で思いつつ、
「じゃあ、明日セブンイレブンに歩いていって、おやつを買おう」と約束すると嬉しそうに頷く息子。

そして今日、気持ちいい風の中、歩いてセブンイレブンへ。
前を歩く息子の背を見ながら、
君たちの世代はこれからもっと大変だけど挫けず生きていくんだぞと思う。

しかし、息子の主旨は車を無駄に使わないということであって、
おやつは関係なかったのになーと若干腑に落ちない気持ちになりつつ、
セブンイレブンで子ども三人分のプリンを買うのであった。


2013年6月26日水曜日

家族のこと。

残業中に家から「藍(長女)と文人(長男)がとっくみあいの喧嘩をした」との電話。

妻から話をきくと小二の長男がわるい。
 しかし奴はいま学校で鬱々としていてその気分もわかるのだ。
自分に自信がもてない時期はきっと誰にでもあって、でもそれは本人でどうにかするしかない。
 ほんとうだったら、家と学校という限定されたチャンネル以外にも自分の居場所があればいい。

ある年代において他者に認められたり、自分の価値を実感できる場所の必要性をぼくも痛いほど知っている。それはサッカーだったり、ピアノだったり、釣りだったり、習字だったり。本当になんだっていいのだけど。
世界は家と学校だけじゃないということを肌で知れるといいのだ。

長男と電話で話して、習い事というニュアンスは出さずにただ漠然と「文人はどうしたい?」と訊ねると「うーーーーん」と長考。まあ、そうだろうな。ぼくだって返答に困る。

けっきょく、明日から毎朝一緒にジョギングしてみるかということになった。
我ながらなんでジョギングと提案したのか分からないけど、なんとなく何か継続することを共有した方がいいのだろうなと思った。ふーーむ、家族っておもしろいな。


2013年3月12日火曜日

児童文学ことはじめ その一


ぼくは本が好きだ。漫画も愛している。映画も落語も音楽も好きだ。
今年からそこに児童文学が入ることになる。

きっかけは友人に「絵本や児童書は大人が読んでも面白いんだよ」と教えてもらったことだった。
最初に聞いたときは「ああ、児童書いいよね。ぼくも好きだったよ」と応じていた。

寺村輝夫の『王さまシリーズ』は大好きだったし、家には小学館の『国際版 少年少女世界文学全集』があったのであらかた読んでいた。宝島、王子とこじき、トム・ソーヤーの冒険、ガリバー旅行記、八十日間世界一周といった冒険物も好きだったけれど、特にぼくは『パール街の少年たち』や『若草物語』、『愛の四姉妹』、『クオレ』、『ゆうかんな船長』のような人間の尊厳が描かれている成長物語が(今思うと)好きだった。(さらに今思うと下村湖人の『次郎物語』も好きだった。教養児童小説が好きだったのかもしれない)

だけど、なんといってもぼくの黄金の書は『ロビンソン・クルーソー』だった。ほぼ主人公一人しか登場しない物語。無人島に漂流し、絶望し、創意工夫しては挫折し、またやり直し、生活を作り、孤独にうちひしがれ、インコに話しかける主人公にぼくは夢中になった。何度も何度も読んだ。何度読んでもウミガメのスープはとっても美味しそうだった。果物をしぼった湧き水も。

そんな風に児童書を読んでいたぼくにとって「絵本や児童書は大人が読んでも面白いんだよ」と言われることは「ああ、面白いよね児童書って。ぼくもよく読んでいたよ」と返すような事柄だった。ぼくにとって児童書は「終わったこと」であり、今のぼくと関係のあることと思えなかったのだ。

そんなある日、古本屋で何気なく児童書コーナーを眺めているとあるタイトルが目にとまった。
『二分間の冒険』
そう題された本を手に取ると表紙には不気味な一つ目の怪物が描かれており、刀を持って対峙している男の子と女の子が背中を向けて立っていた。
何かがひっかかる。何かが異質だ。
子ども向けではあるのだけど、それと同時に見る者を魅了する何かがあるような気がした。
ぼくはその本を買って友人に「これ気になったから買ってみたよ」と渡してみた。友人は「ああ、岡田淳じゃん!この人は本当に面白いんだよ!」と目を輝かせて本を受け取った。そこにはぼくの注意を引く何かがあった。森の奥向こうで何かがきらりと光ったように。

結論をいうと、ぼくは岡田淳を皮切りに児童文学にぐんぐん引き込まれていく。

およそ四半世紀前に自分から遠ざかった児童文学は、ぼくがSFやミステリーや恋愛小説や歴史小説やノンフィクションを読んでいる間もこつこつと作品を生み出していた。今、ぼくの目の前には大きくて豊かな鉱脈がある。出会ったことのない登場人物、見たことのない景色、触れたことのない物語がある。ぼくはわくわくしている。心の底から。

次回は岡田淳の傑作物語『こそあどの森』シリーズの面白さについて熱く語ります。

(つづく)


2013年2月5日火曜日

マフラーのように。


深夜、帰宅したら一枚の葉書が届いていた。
まだお会いしたことのない友人、
デザイナーの小林真紀子さんからの寒中見舞いでした。

肉厚でちょっとクリーム色かかった紙にマフラーのイラストが大きく描かれ、
裏には万年筆のような青いペンで丁寧に書かれたシンプルなメッセージ。

立春でも夜はまだ寒く、
家族も寝静まった家は冷え切っていたのだけれど、
ぼくはとってもうれしくなった。

なんていえばいいんだろう。
思いがけない贈りものみたいな。

ちょうど読んでいた吉田聡の傑作自伝漫画『七月の骨』五巻にあった
「漫画を描くのは読んでくれた人に自分の時間を差し出すことだ。贈り物のように」
という台詞を思い出した。

ぼくは小林さんとtwitterやfacebookでしかお話したことがないのだけど、
深夜にぼくの手の中にあった葉書はとっても近しいものだった。

きっと小林さんは家族やお子さんが寝静まってからの自分の大切な時間を使って
デザインを考えたり、紙を選んだり、試し刷りしたり、せっせと文を書いてくれたのだ。
丁寧に。
ちょっとわくわくして。

小林さんの日々の暮らしのいくつかの時間。
この葉書はそれらを編んで紡いで生まれたんだろう。
少しずつ、丁寧に。
あたたかいマフラーのように。

「こんな葉書をもらったよ。いいでしょう」と上司(四十代女性)に見せたときに
「わーいいね。友だち?」とたずねられ、
ぼくは「うん。友だち。まだ会ったことないけど」と答えた。

まだお会いしたことないけれど、
ぼくは小林さんのことを友だちと思おう。
だって、きっと小林さんだってそう思っているもんな。

そんな風に思った一枚の葉書でした。
小林さん、ありがとう。
ぼくも書きたくなりました。




小林さんのサイトはこちらです。
http://www.h-cozuchi.com/


2013年1月21日月曜日

母親とこたつでこんな話、しないものな。

昨日の日曜日は飯山の実家で今季最初の雪下ろしでした。
豪雪地帯の人はわかると思うのだけど、雪下ろしのときはいろんな話が出る。
基本、単純労働だからね。
六十を超えた母と雪下ろしをしていると、なぜかぼくの子育てについての話になった。

ぼくは習い事にも興味がないし、
子どもにあれれこれ言うこともほとんどない。
宿題やらなくたって自分の責任だし、
ぼくは本が好きだけど子どもに本を読めと一度も言ったことがない。

「子育てについては特にないなあ」というと、
そんなことはないだろうと母が雪をシャベルで下ろしながら言うので「うーん」と考え込む。

八歳、七歳、三歳の子どもがいるけれど、
唯一続いていることは『いいな』と思ったらすぐ口に出すことだ。

食卓についたら「箸が上手になったなあ」とか、「こぼさなくなったね」とか、
「いっぱい食べれるようになったなあ」とか毎回言っている。

子どもが服を着替えたら、「着替えるの上手になったなあ」とか、
「服の組み合わせのセンスがいいよね」とか言ってる。

遊びで絵を描いていたら、「色づかいがいいよなあ」とか、
「人の捉え方がうまい」とか言ってる。

遊びで詩を書いていたら、「この発想はすごい」とか、
「全体のリズムがいい」とか言ってる。

母親の前でもいつもやっているから、
「お前は本当に親バカだ」と言われるけれど、
あれは意識して『いいと思ったらすぐ口に出す』ようにしているから、
それが子育てと言えば子育てかなぁと答えた。

雪と格闘している母はそれを聞いて、
「それは何のためにやっているのだ」と尋ねてきて、
ぼくはまたうーんと考え込んだ。

『何のために』という目的性はほぼない。
例えばそうした方が子どもの情緒教育によいとか、
そういうデータを探せばあるかもしれないけれど興味がない。

『何のために』とか、『子どものために』という視点を
子どもに対して持ち込みたくないという気分がぼくにはとても強い。
そういう風に子どもと接したくないという気分が根拠もなく強くある。
なぜかは知らない。気分だ。

それでも答えを待つ母に(しつこいのだ)、長考の末、
「それはたぶん、自分は生きてきて良かったんだと思ってほしいからだと思う」と答えた。

ああ、と母は納得したような感じでその話は終わった。

ここから先はぼくが文章化しておこうと思ったので書いておく。
(ぼくは文章化しないと自分の考えがまとまらないのだ)

八歳、七歳、三歳の子どもたちはこれから順当に挫折を味わうんだろうなーと思っている。
自分が実は世界の中心にいないのだということを実感したり、
仲間はずれにあったり、いじめられたり、いじめたり、
自分が思ったより嫌なやつだということを知ったり、
嘘をついたり、人を裏切ったり、才能のなさを知ったり。

自分もそうやって生きてきたし、今だってそうだ。
でも、どんなに自分で自分をくだらないと思っても、
他者にお前なんか生きる価値もないと言われても、
最後の最後で、「この世に生を受けて良かったんだ、ここにいていいんだ」と
うっすらとでいいから思ってほしい。

それは何というか、子育てというよりも、
親としての存在意義のような感じとして。

食べて、寝て、大きくなって、友だちができて、
一人で生きていけるようになるまで共に暮らすことが親の役割だとしたら、
その生活のなかで「自分はここにいていいんだ」と信じるに足る気分を持ってもらえたら、
親としてのぼくはそれ以上のことはない。
そこから先は自分でやっていくのを、一番近い他者として見ていたいという気持ちがある。

雪下ろしは大きらいだけど、思いがけず母親とこんな会話を交わす効能もある。
母親とこたつでこんな話、しないものな。




2013年1月10日木曜日

通奏低音のように。

昨夜遅くに新聞記者の方に「原発事故以後で生活が変わったことがありますか?」と取材的に聞かれ、はたと困った。
友人と語り合ったり、デモに参加したり、講演会に足を運ぶようになったが、それはぼくにとっては結果に過ぎなくて。

おそらく記者の方が望んでいるような回答ではないかもしれないけれど、「原発が崩壊していることが暮らしの一部となったこと」がぼくにとっての最大の変化だ。
それはぼくの名前が稲田英資であるように、朝おきたらベッドから出るように、それだけ取り出しすわけにもいかないし、なかったことにもできない。

さまざまなことがらの積み重ねを暮らしというのならば、東京電力原発事故以後、ぼくの、家族の、友人の、日本中の暮らしが「原発が崩壊していること」を基盤として成立するようになった。
ぼくたちが毎日寝たり起きたり、笑ったり泣いたり、人を好きになったり愛しさで胸がいっぱいになったり、音楽や映画に感動したりしている暮らしの足元をふと見ると、そこにはいつでも離れることなく「原発が崩壊していること」が横たわっている。それはどんなときでも消え去ることがない。通奏低音のように。

それがぼくにとっての東京電力原発事故の以前・以後だ。

この通奏低音はたくさんのことをぼくに思い起こさせる。
原発事故が収束していないこと、一年半もたった今も避難所生活している方たちがいること、事故現場で収束を目指している方々のこと、除染作業に関わる現場の人たちと発注側の格差のような復興システムのいかがわしさ、政治や経済・産業システムのいかがわしさ、戦後六十年かけて作り上げてきた日本人の価値観、日本人が衆議院選挙で選択した結果、まるで「もう終わったことさ」のような日本の雰囲気について、これからの・今のエネルギーについて、デモに参加することについて、友人と語り合うことについて、食べ物について、子どもについて、十代の友人たちのフラットな疑問と怒りについて、マブソン青眼さんの怒りについて。ぼくが共犯者であることについて。

これらは全て、事故以前はなかった。
あったけれど見ないふりをしていたこともあるし、まるでなかったこともある。

でも、今は毎日どんな暮らしをしていようとも低音部の旋律が流れ続けている。
ぼくは考えなくてはいけない。思い起こされることについて。見えてしまったことについて。
いつかは慣れてしまうんだろうかと恐れながら。
そしてときおり声をあげたり、デモに参加したり、友人と話したり、もういやになったり、憤ったり、悲しくなったりしている。

もしそれを生き方というのならば、生き方が変わったのだ。
たとえ具体的な変化・アクションがなかったとしても。好まざるにせよ。

「原発事故以後で生活が変わったことがありますか?」の問いから、ぼくはずっと考え続けている。