2011年11月30日水曜日

インターネットのこと。

十一月二十九日の夜にミュージシャンの小沢健二がUSTREAMで
生配信をするというニュースが前日くらいからネット上で流れた。

ぼくは大学時代から小沢健二のファンである。
店名に小沢健二のコンサートタイトル(ひふみよ)を冠するほどのファンであるBook&Cafeひふみよさんにて
ひふみよで小沢健二のUstream生配信を見る会」が開かれることが当日決まった。

相変わらず仕事をしていたぼくは時間ギリギリに着いて、
参加者は五人たらずという実にそれらしい人数で、
手作り感満載にセッティングされた映写機がBook&Cafeひふみよの二階座敷に座っていた。

「これから始まるんだ」とワクワクしながらこたつに入ると、
ニューヨークの小沢健二から「マイクチェック!」の声が届いた。

「おお!」とそわそわしていたら、彼の姿がちらりと映り、じきに屋外の風景がしばらく続いた。
「アクシデントかな?」とそれでもワクワクしてモノクロの風景を見続けていたら、
風に吹かれながらマイクを持つ小沢健二が映った。

彼は困ったなあという表情で、
自分のwebサイトがパンクしてしまったこと、
実は来年三月からの東京コンサートについての情報をwebサイトにアップすることで
見ている人たちと共有したかったのだが出来なくなってしまった、
でもここで語るよりも後日webサイトでコンサートについての文を読んでほしい、
今日は残念だけど何かは渡せた気がする、というようなことを語った。

そのままUSTREAMは十分ほどで終わった。

歌もないままUSTREAMが終わって「あれ?」という感じではあったのだけど、
実はぼくはそんなにイヤな気持ちにならなかった。

一夜明けて「何でだろう?」と考えていたのだけど、
今年のひふみよライブ以来、ぼくらは同じような地平で立っている感じが続いているからのように思えた。
彼が高い所にいて、ぼくらはその下で歓迎するという高低差をひふみよライブ以来感じなくなった。

音楽シーンに登場しなかったり、毎年ツアーがなかったりしても、
小沢健二は地球のどこかでご飯を食べたり本を読んだり音楽を聴いたりして彼は彼であり続け、
ぼくらはぼくらで同時代に生きている。

彼が歌で、弦で空気を震わせようと思ったときに、
幸運であればぼくらはそれを受け取ることができる。
たまに出会う友人のように。
世界の裏側にいる友人からはるばる手紙が届くように。

そんな気持ちを今年のひふみよライブでなんとなしに得ていたあとで、
昨日のUSTREAMはなんだかしっくりくるものだった。
サイトがパンクして上手くいかなかったけれど、
地球の裏側から届いた葉書が雨で染みて上手く読めなくても「ああ、元気でやってるんだ」と思えるように、
昨夜のUSTREAMはぼくに何かを届けた。

インターネットは正でも邪でもなくて、
「何かを共有したい」という地平に立っている同時代のぼくらにとって
大切になりうるものなんだなとしみじみ思った。
地球の裏側から届く一枚の葉書で、心をあたたかくできるように。

昨日のUSTREAMはニューヨークから届いた一枚の葉書でした。


 

2011年8月22日月曜日

「最近の稲田さん、門前界隈に積極的に関わってますよね」とちらほら耳に入るようになった。

「最近の稲田さん、門前界隈に積極的に関わってますよね」とちらほら耳に入るようになった。

もうその通りなので何もいうことはないのだけど、
ぼくのことを以前から知っている人ほどちょっと不思議に思うみたいだ。
基本的に出不精で、見知らぬ人と会ったり、イベントやパーティーなどを苦痛として生きてきた人間なので、
「稲田になにがあったのか?」という気持ちになるのもわかるなあと思う。

ボンクラが立ち上がった二年くらい前から門前の動きがぼくにも分かるくらい活性化してきて、
「いったい何が起きているんだろう?」という気持ちは生まれていた。
それでもぼくは門前界隈の友人も少なく、傍観者としての立ち位置は特に揺るがなかった。
興味があるけど何もしないという感じ。
正確には「興味はあるけど何をすればいいのか分からない」感じ。

一番大きな転換期となったのは今年六月六日に行われたボンクラ・ゼミナールだった。
講師は東京R不動産の馬場正尊さん(Open A)。
さまざまなリノベーションを実現されてきた方なのだが、
正直ぼくは会場に行くまで知らなかった。
馬場さんのお話は全てが具体的でとても面白かった。
刺激を受けた建築関係者や学生はたくさんいたと思う。

でも、ぼくが一番びっくりしたのは「面白がっていいんだ!」という視点だった。
馬場さんの話の根底には「この案件、面白そうだ」という純粋な興味がいつもあるように思え、
リノベーションされた実例をプロジェクターに写すたびに「ね!いいでしょう!」と
目の引力を増しながら話す馬場さんの姿にびっくりした。

ぼくが傍観者であることは変わらないし、
これがぼくの特性であることに自分自身不満はない。

でも、傍観者でありつつ、今の門前の動きを面白がってもいいのかもしれないと思った。
ぼくは店舗経営者でもないし、建築関係者でもないし、人を魅了する表現者でもない。
ぼくはボンクラ・ゼミナールで馬場さんの話を聞くまで、
門前の動きとは「何かしらの表現者たちが中心となること」だと思っていた。

それはある程度の側面を持っているかもしれないけれど、
面白がるということで、門前に関わるという位置を持てるんだと思った。

コペルニクス的発想でいえば、
発信側だけに全ての価値があるのではなく、
受け手側にも価値創造の余地があるんだと思った。

ちょっとややこしい言い方ですね。

店舗経営者や建築関係者や表現者たちが何かを発信して完結なのではなく、
受け手側であるぼくは、発信されたものについて
「どういう受け取り方をするのか」「どう面白がるのか」ということで
新しい何かや価値の増大は生まれるのかもしれないと思ったのです。

「巻き込むことの重要性」はよく言われるキーワードだけど、
それだけだと発信側への傾きが大きい。

発信者側が半分、受け手側が半分。
発信して、受けて、それで初めて一つの完成が生まれるのだと。

ぼくはこういったことに全く無知なので
「そんなの当たり前じゃん」というようなことなのかもしれないけれど、
そう考えた時に初めて、門前が自分と関係のあることとして捉えられるようになった。

以前からお誘いを受けていたのにあまりピンときていなかったNgeneに寄稿することも
「ぼくが門前をどう面白がっているのか」の視点だったら書けるなあと思った。

ネオンホールの清水さんのロングインタビューもその一つで、
もうすぐ『信大からネオンホール編』が終わり、
『ネオンホールからナノグラフィカ編』
『ナノグラフィカから街並み編』を予定している(たぶん)。

ぼくが何をしたいのかよく分からなく(ぼくがそういう人間でないこともよく知っている)、
最初はおそらく戸惑っていたであろう清水さんも何となく理解してきてくれているみたいで(たぶん)
『ネオンホールからナノグラフィカ編』も楽しみですと言ってくださった。うれしかった。

『ネオンホールからナノグラフィカ編』ではいよいよ清水さんたちが
街にどう関わっていくのかのお話が聞けるんじゃないかとわくわくしている。

ぼくは基本的に人に臆病で高い壁を張りめぐらしている人間なのだけど、
「受け手側の立場からいまの門前を楽しんでみよう」という視点を得ることで自由になった。
だいいち、楽しい。
街に知り合いが増えて、興味あることがらが日々の中にあることが楽しい。
ちょっとだけ知り合った音楽家がいまはどこで歌っているんだろうとか、
ふだんなら行かないであろう大学生の駅前ライブに顔を出すとか、
好きな人の作品や活躍を少しだけ近いところで見てとれるとか。

「ぼくは今、そんな風に人と街に関わろうとしているんですよ」という
いろんな人に向けた私信のようなコラムでした。

2011年8月21日日曜日

清水隆史ロングインタビュー 信大からネオンホール編(四/五)

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※ 前回までのあらすじ
権堂で長年空家となっていたスペースを見つけ(勝手にもぐりこみ)、
バンド仲間三人で共同住居を兼ねたステージとして借りようと決意した清水さん。
しかし、同時期に小学校と中学校に教育実習にも行くので忙しい。

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稲田  信大付属の小学校と中学校に教育実習に行ったんだ。
     それで楽しかったと。 
清水  うん。楽しかったですね。
稲田  なんの教科を教えるんですか?   
清水  中学は美術で、小学校はもちろん全教科です。
稲田  そっか。
     中学と小学校はどっちが楽しいのかな。
清水  そりゃ小学校でしたよ。
     子どものパワーが違うから。
     小六を担当したんだけど野生人間みたいでよかった。
稲田  へええ。
     そういうことをいう清水さんを理解できなくはないんだけど、
     やっぱり意外だと思っちゃうんだよね。
清水  実習をやって感じたことがあって。
     当時はネオンホールを借りるために大家と交渉している時期で、
     マイナーのバンドとか演劇、現代美術の世界を作り上げるために、
     ひたすら斜に構えていたような感じだったんですね。
     自分の美意識を構築しながら、
     このバンドはこの時代が最高にかっこいい、
     このアートはこれだからつまらない、
     思想を具現化したようなファッションを追求すべきだ...
     とかやっていました。
     今思うとちょっと恥ずかしいけれど、当時はもう真剣だった。
     でも、教育実習に行ってみるとまず格好からしてジャージだし!
     帽子なんか被れないし(清水さんは四六時中帽子を被っている)、
     もう全部剥ぎ取られて、そこで六週間も頑張らなきゃならない。
     「あ、そういう世界なんだ」と観念したんですよね。
稲田  うん(おもしろいなあ)。 
清水  中学校の教育実習では一クラスで七人実習生が入るんですよ。
稲田  そんなにいるんだ! 
清水  一つのクラスに数学科とか理科科とか体育科とか各教科が一人ずついるんです。
     それで各々が教壇に立って授業をやるわけだけど、
     自分は曲がりなりにも舞台に立ったり、
     バンドのライブ演奏したりプロデュースしたりしてるわけだから
     なんとなく自信はあったんです。
稲田  うんうん。 
清水  でも、普段は走り屋で峠を攻めているやつの
     授業が面白かったりするんですよ!
稲田  おお。 
清水  ふだん「トレンディーとは何か」みたいな
     ハウツー本を読んでるようなナンパな奴の授業も、
     なんか妙に納得できるんですよ!
稲田  おお! 
清水  子どもたちが「わあ!」ってよろこんでるし。
     で、自分の授業はあんまり面白くなかったりして。
稲田  それはまるでライブだね。 
清水  そうそう。
     結構ショックを受けて。
     いつも「表現とは?」「アートとは?」とか言ってるけど、
     子どもに伝えられる術を持ってないじゃんって。
     発想の自由さ、素直さとかは走り屋やナンパ君の方がよかったりして。
稲田  うーん。 
清水  子どもを前にしたら理屈は一番じゃないんだと。
     アートの知識とか、理論構築できてるかとかじゃなくて。
     剥き出しだったり、しまいこまれたりしてる感情をキャッチして、
     いかにこう...正直に受け取って、その場で返せるか、みたいな。
     コミュニケーション力がすごく大事で、それは理屈だけじゃ得られない。
     普段から他者とどういう距離でどう関わっているか、
     どうやって他者に想いを伝える努力をしてるかが、とても大事なんだなって。
     格好付けてガードしてるようじゃだめだって強く思った。
稲田  うんうん。
清水  それでショックを受けて。
     実習だけじゃなくてネオンの準備で忙しい中だったけど、
     今まで全然接点がなかったような、話もしなかったような
     タイプの奴らと正面からじっくり付き合ってみたら、
     それぞれやっぱり面白かったんですよね。
稲田  うん。
清水  めっちゃ仲良くなって、皆で一丸となって授業を作ったりしました。
     とても楽しかった。
     それで思ったのが...「あ、自分が悪かった」と。
稲田  (笑)
     清水さん、そういうところエライよね。
清水  理屈とか理想ばっか言ってる場合じゃないって。
     当たり前だけど、趣味とかセンスとかが違っても、
     人としてわかり合えるポイントは沢山ある。
     自分一人のできることなんて限られてるわけだし、
     色んな人の面白い点をわかって楽しめる方がいい。
     アートとか表現とか言うなら、閉じてちゃ駄目だ、
     子どもとか走り屋(笑)とかとも交われるくらいの
     力がなきゃだめだと思ったんですよ。
稲田  なるほどなあ。
     その思考は正に今の清水さんに繋がっていますね。
     きっとそのタイミングでそう思える出会いがあったことは
     ネオンホール立ち上げ時にも重要だったような気がします。
     そういえば、タマちゃんとも実習で知り合ったんでしたっけ。
清水  そう。
     タマちゃんは隣りのクラスで体育の実習生だったんですよ。
稲田  タマちゃんも信大時代から
     音楽とか演劇とかやってる人だったんですか。
清水  自分でやってはいなくて、遠目から見てるって感じかな。
     前から怪しい奴だとは思ってて、実習で知り合って以降から
     いろいろ一緒にやるようになりました。
稲田  そうなんだ。
     そのときはネオンホールはどういう状況ですか?  
清水  契約の交渉中でしたね。
     それでインスタレーションをする女の子にしょっちゅう状況を説明してた。
     交渉中に教育実習だったので、先方からよく職員室に電話がかかってきたりね。
稲田  ああ、まだ携帯もない時代だもんね。 
清水  職員室の電話つかって交渉したりして。
稲田  ははは。
     ネオンホールの契約OKはいつ頃になるんですか。 
清水  正式な契約は教育実習が終わってすぐくらいかなー。
     実習が終わったのが九月の半ばで、
     展示会は十月の頭からだったかな。
稲田  それがネオンホールのオープン? 
清水  そう。オープニングイベントですね。
     一九九二年。
稲田  そっかあ。
     来年で二十年ですよね。何かやるの? 
清水  スタッフ間で企画してる状態です。
     十五周年のときは芝居をやったんですよ。
     久しぶりに演出をやらせてもらいました。
稲田  十五周年は唐十郎の『ジャガーの眼』をやったんですよね。
     ぼくは行けなかったんですけど...
清水  (睨む)
稲田  (苦笑)あれは公演してよかったですか。 
清水  (睨みながら低い声で)すごくよかった。
稲田  ああ、行けばよかったなあ...。
清水  しんどいけど、ホント楽しかった。
     一生忘れないです。
稲田  うう...。
清水  まあ、来年も何か演劇をやることになるのかなあ。
     哲郎と夏海がやると思えば。
稲田  あ、その辺は明確に分けているんですか。
清水  もちろん。
     今のネオンホールはあの二人のものだからね。
稲田  ネオンホールが清水さんたちからスタートして
     今の哲郎さんたちで実行スタッフは何代目くらいになるの?
清水  三代くらい?かな。
稲田  そうなんだ。
     それでネオンホールがスタートして、
     このネオンホールで大学残りの一年を濃いものにしようと思っていたんですか。
清水  残り一年とは思っていなかったな―。
     大学院にも行こうかと考えていたし。
稲田  ふーん。
     それで、ネオンホール最初の展示会は
     (スエヨシカナコインスタレーション「有機変造体標本」)
     やってみていどうだったんですか?
清水  当時は長野でそんなことやる人があまりいなかったのか、
     オープンすること自体は割と話題にしてもらいました。
     テレビやら新聞が来たりもして。
     たしかSBCとNBSがネオンホールオープンと展覧会を
     合わせて取材してくれたんじゃないかな。
稲田  ふーん。
     そもそも、当時はそういった古い家屋をつかって
     若者たちが店をオープンするってことは珍しかった?
清水  多分、全然なかったと思います。
稲田  取材の人たちにオープンすることの意図説明が
     大変ってことはなかったんですか。
清水  いやー、まあ今の「シンカイ金物店」と似たかんじですよ。
     学生が何か新しいことをやってると。
     そこには当然迷いもあるんだけど、それも含めて面白いかもと。
     実際そういう感じだった。
稲田  そっか、そう考えればいいのか。
     十月はオープニングのインスタレーションがあって、
     十一月から本格的に住み始めるんですね。
清水  そう。
     でも十一月も何かしらあって、パフォーマンスをやったり、
     たしか音響的なインスタレーションをやりたいって奴が現れて、
     「じゃあ、やろう」と。
     十二月には自分たちのバンドも含めたライブをやりました。
稲田  最初から盛りだくさんだなあ。
     ライブの音響とかはどうしたんですか。
清水  借りました。
     音響関係は信大の軽音楽部から借りて、
     イスは権堂のライブスタジオからお金を払って借りて。
     最初はイスすらなかったからね。
稲田  一番最初にお金をとったイベントがそのライブ?
清水  そう。
     チケットは五百円だったかな。
稲田  そもそもネオンホールは、
     住む人の家賃であの空間が成り立てばいいやっていう
     発想からスタートしてるじゃないですか。
     そのお金をとることへの考え方ってどう思ってたんですか。
清水  うーん。
     自分たちが企画してライブをやってみたらお金が入ってきて、
     それは結構うれしかったんだけど、
     基本的には「自分たちが場所を貸してお金を儲けるのは悪だ」
     という発想が当時あったんですよ。
稲田  ん?
     今もあるんですか?
清水  今はないよ。
稲田  悪って発想は何でですか?
清水  単純に、表現したい人はして当然で、
     場を持つ人は、表現したいと言われればやらせる義務がある。
     お金取るとかあり得ないだろうって。
稲田  うーん。
     じゃあ、場所代は取らなかったの?
清水  迷ったけど一応とったよ。
     でも、すっごく安い金額に設定して。
     クラブイベントとかファッションショーをやりたい人とか結構いたしね。
稲田  あ、そういう人けっこういるんだね。
清水  まあ、演劇とか音楽活動やってたりしたから
     そっち方面の友だちが多かったんですね。
稲田  清水さんって基本的に友だち多いよね。
     ぼく少ないんだよなあ。
清水  それは稲田さんが友だちと思ってないだけで、
     向うは友だちだと思ってるんじゃない。
稲田  そうかなあ。
清水  ライブハウスやサークルもそうだけど、
     自分は人に会いに行くって意識が強くって。
     高校は上に大学がある高校だったんですね。
稲田  ほう。
清水  それで、付属の大学の漫画研究部に呼ばれてもいないのに
     高校生の自分が「たのもう~」って入ってくんだよ。
稲田  マジですか!
清水  「高校の漫研から来ました」っていうんだけど、
     それ以上いうことないからシーンって。
稲田  (爆笑)すげー!
清水  そうやって話したい人に会いに行ったりしてた(笑)

(ロングインタビュー 信大からネオンホール編 つづく)


四六時中帽子を被っている
清水さんは本当に四六時中帽子を被っている。
それは夏でも冬でも変わらない。
怪物くんみたいに絶対人前で帽子をとらない設定でもあるのかと思っていたら、
別に普通に帽子をとって汗をふいたりしているので更に謎が深まる。
帽子へのこだわりはロックンローラーとしてなのだろうか。いつか訊いてみたい。


タマちゃん
増沢珠美。通称タマちゃん。
長野市西ノ門町にある編集室兼喫茶店兼ギャラリー「ナノグラフィカ」の主宰であり、
長野・門前暮らしのすすめ」のリーダー的スタッフであり、
財団法人演劇人会議に所属する演劇プロデューサーであり、
役者であり、ネオンホール界隈の肝っ玉母さん。
長野市での演劇やコンサート、展覧会などのイベントの企画運営や、まちなか再生の企画にも関わっている。(清水)
SBC制作で全国放送された元気な五歳児・福太郎のお母さんでもある。
通称はタマちゃんなのだが、若い衆がタマちゃんに敬意を表する際に「タマちゃんさん 」と呼ばれることもある。


哲郎くん
現在のネオンホールの店長、若頭、リーダー。
ソフト麺的オルタナティブバンド「ジ・オーパーツ」のヴォーカル・ギター。たまに役者もこなす。(清水)
ぼくの友人(女性・大工仕事見習い24歳)は「長野市一のイケメン」と称する。
が、本人は顔がイケていることに触れられるのはあまり愉快ではないらしい。
ソロで自作を歌うこともあり。ぼくが観たのは一度だけだが、お父さんの病気を歌う歌がよかった。


夏海ちゃん
現在のネオンホール若頭その2、事務長、屋台骨。
チョコレートタウンオーケストラ」「ジ・オーパーツ」のベーシスト。(清水)
あえて毒舌キャラでいっているのかと思っていたのだが、どうも素で毒舌らしい。
が、本人は自分は毒舌だとは思っていないと見受けられる。
夏海さんのツイートやブログで時折書かれる、よい音楽を聴いたときの心のふるえや、
気持ちいい朝の空気などの記述がぼくは好きだ。
自分の心にふれたものを大小の差がなく大切に考えているように思う。


『ジャガーの眼』
唐十郎の状況劇場末期を代表する名作。
2007年度末にネオンホール十五周年の記念として、清水の演出で公演した。 約二十名が出演、観客動員数は約500人。
公演のため楽屋や搬入口の構造を変更、直前の約一ヶ月間は稽古と仕込みのために休業する...という、ネオンホールとしては大がかりな企画だった。(清水)
「裏ぶれた風が吹く忘れじの路地。人の身体から身体へと渡り歩く奇妙な眼球を宿した青年が、それを追う男装の麗人と運命的な邂逅を果たした...! 扉を背負った謎の探偵が彼らを阻止し、肉体植民地の移植医が不気味に笑う。二人が訪ねたその病院、それはいつか、寺山修司がノックした無人の病院だった...」


シンカイ金物店
過去にシンカイ金物店という店を営んでいた門前の古民家を、自分たちで改修し共同生活を始めた信大生の家を指す。
いまも「シンカイ金物店」という店名が建物に残っているので、その共同生活の場を誰もがシンカイと呼ぶようになった。そこに住む学生二人を親しい者はシンカイボーイズと呼ぶ。
彼らが作り上げた共同生活の場はなぜか人を寄せ付け、「ちょっとシンカイ行ってくる」というフレーズがけっこう飛び交う。
門前界隈の三十代男子が、大学生の住む古い家に集まってはギターを弾いたり、酒を飲んだりしている夜がある。
不思議な光景のようにも見えるし、門前ならではのよくある風景にも見える。
彼ら自身のフラットな人となりが、三十代の大人たちに陽気に愛されているのだろうなとぼくは思っている。


2011年8月11日木曜日

>駅前をめぐる冒険(シンカイボーイズ小林君)

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長野市門前の使われなくなった古い民家(旧シンカイ金物店)を借りて、
自分たちで改修し共同生活を始めた二人組の信大生。
シンカイボーイズの二人(小林君と白石君)については
長野県の技能五輪サイト『wazacan』でも書いたことがあるのだけど、
彼らの特異なところは人と触れあうことのフラットな積極性にあると思う。

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自我との葛藤の時代である二十代前半にこんなにフラットに、
かつ積極的に人と関われる若者は見たことがなかった。
少なくともぼくはそうじゃなかった。
実力以上に自分を大きく見せようとしたり、必要以上に卑小になってしまう「自我の檻」があって、
人と関わり合うことに制限をかけてしまう。
ぼくはそんな二十代だった。

でも、二人にはほとんどそんな檻を見受けられない。
自我の模索はひしひしと感じるけれど、自分を閉じ込める檻は見えない。
檻などなく、模索のために平野を見つめ、草をかきわけ、出会うもの一つ一つに視線を向けているように思える。
旅人が異国の道を歩くように。

シンカイボーイズの二人が駅前で一緒に演奏をしていることは伝え聞いていたのだけど、
そのときは楽しそうでいいなと思っていたくらいだった。
今回、小林君が思うところがあって、一人で駅前で路上ライブをするという話を知った。
そのことを決断した彼のブログがとてもよかった。

何か行動を起こすときの目的や思いは人それぞれでいいとぼくは思っている。
彼がブログで書いた、東北へ行くための資金にすることや、イベントに参加することも
ぼくにとっては「おお、がんばれよ」という事柄だ。
ぼくも宮城県に被災地の手伝いに行ったけれど、それはぼくのために行ったのであり、彼は彼の考えで行く。
小林君が大切に思っていることをブログで知り、認識し、尊重する。できれば応援する。
それ以上でも以下でもない。

ぼくが彼の行動に興味を持ち、足を運ぼうと思ったのは、
駅前での路上ライブについて彼がブログで
不安を率直に口にしていたからだ。
『不安と自信のなさにつぶされそうになります』と書き、
『これをやらなかったら僕は絶対に一生グチグチ文句を垂れて「やっとけばよかった」と嘆くんだと思います。だったらやるしかない』と書いていた。

誰もが思うことだし、誰もが経験することだ。
そして彼は「やる」と決めた。
「やらなかった」ことが多すぎるぼくは、やると決めた人を見てみたかった。
駅前で路上ライブということだけ捉えてみれば、ぼくは興味を引かなかったかもしれない。

八月十日二十二時に長野駅前に足を運ぶと小林君がD&DEPARTMENTの男子と並んで歌っていた。瀧内さんもいた。
二人が帰り、何十人もの人たちが急ぎ足で小林君の前を通り過ぎ、ときおり騒ぎ声が上がり、警察官が見回りにくる。
夜の駅前によくある風景。

小林君は二、三十曲を歌い、自作の歌も歌った。
気のいい若い二人組がモンゴル800の『あなたに』をもう一度歌ってくれとリクエストをし、
サム雷(サムライ)という北信に住む外国人といくつかセッションをした。

久しぶりの夜の街はどこかよそよそしくて、猥雑で、楽しくて、不安で、
見知らぬ人が沢山通り過ぎて、孤独で、出会いがある。
旅と一緒だ。

互いに何かを伝え合おうと、
曲の合間に言葉を交わし合う小林君とサム雷の姿は
旅と一緒だ。

小林君がこれからどんな時を駅前で、東北への旅で過ごすのかはまるで分からないけれど、
分からないこと、見たことないこと、会ったことがない人、したことないこと、
そんな未知のかたまりの指先に触れられたようでぼくも嬉しかった。

いってらっしゃい。





2011年7月31日日曜日

清水隆史ロングインタビュー 信大からネオンホール編(三/五)

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※ 前回までのあらすじ
やりたい放題やっていた信大松本キャンパスから、人も少なく勉強も忙しい長野キャンパスに移ってきた清水さん。
思うように演劇や音楽をやる場がないので、自分で作ろうと思う。

稲田  長野にないから自分で作ろうってなったんだ。
清水  拠点が松本にあるから、最初は松本に通ってたんです。
     でも、当時の演劇仲間に実践派で一目置いている男がいて、
     「清水くんは松本に来てがんばっているのもいいんだけどさ、
     自分のいる場所で出来ないやつはどこに行っても何もできないよ」って言われたんですよ。

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稲田  うん。
清水  ああ、それはそうだと思って。
     じゃあ、長野をもっと煮詰めようと。
稲田  その人はずっと松本キャンパスだったんですか?
清水  うーん、宗教にいっちゃったから卒業しなかったんだよね。
稲田  ああ。自分でけっこう考えるタイプの人だったんだ。
清水  そうだね。
稲田  それで自分で場所を作ろうと思ったときに、
     いわゆる普通の貸家みたいのは考えなかったの?
     不動産屋で借り物件を見たりさ。
清水  うーん。
     松本での学祭やそれ以外のタイミングでも、
     ビニールハウスを建ててライブハウスやったり、
     空き地でアートイベントなんかをしてたんですよ。
     「スーパーネオン」的なこともそこでしてたり。
     だから、賃貸で物件を借りて何かやろうとは思わなかった。
稲田  セルフビルド的な発想はもうそのときからあったんだ。
清水  うん。
     形にこだわらず、ステージを持つということに興味はあった。
稲田  ネオンホールを作る前に、どこかを借りて場を作るってことは
     まだしたことなかったですよね?
清水  ないですね。
     それで長野で自分たちの場所を作ろうって思ったときに、
     そこに住んじゃえば早いかなと思った。
稲田  住むことと、舞台を作ることを一緒にやろうって?
清水  まあ、お金ないし。ステージ運営して儲ける気なんかゼロだったから。
     住居と兼用じゃなくちゃできないって思った。
稲田  ああ、なるほど。
清水  一人四万出して、三人で十二万...みたいにすれば、何とかなるかなと。
稲田  あ、共同でやろうっていう発想はそもそもあったんだ。
     そのときに巻き込んだ人たちってどんな人なの。
清水  当時、一緒にバンドやってた人で。
     最初にやりたいと思い描いていたのは
     共同作業所とか、共同アトリエとか、そういうイメージだった。
稲田  ふーん。
清水  共同で物件を借りれば、松本でビニールハウス建ててやってたことが
     長野でできちゃうなーって、簡単に考えてた。
     店を始めるとかそういうことは考えてなかったなー。
稲田  そうなんだ。
清水  ライブやら演劇は松本でやりまくってたから、
     長野市で実験的な場所を持って、
     松本でしてた活動をそこに乗っければいいんだって。
     そんなふうに、暮らしてる街で活動すると何か見えてくるかなーって。
稲田  暮らすことって視点はなんで入ってくるんですか。
清水  それ以外にやりようがなかったから...大学生だったし。
     お金ないし。
稲田  ああ。
清水  唯一の実現の手段として、住んで作るしかなかった。
稲田  バンドメンバーはすぐ納得してくれたの?
清水  説得して。
     一人は一緒のタイミングで住んで、一人は少し遅れて参加した。
稲田  ネオンホールの建物を見つけてきたのは清水さん?
清水  そう。
稲田  もともとライブハウスだったんだよね。
清水  うん。でもそれは全然知らなくて。
     当時は空家になって六、七年たってた。
稲田  前の店は「ブッダ」でしたっけ。
清水  うん。
     そこが「ブッダ」っていう有名なライブハウスだったことも知らなかった。
     ブッダの後に「DUB」っていう店になってたらしくて、
     ドアにダブって書いてあったのは覚えてるなあ。
稲田  そっか。
     それでネオンホールになる建物を自分で見つけて、
     借りたいなって思って、どこに声をかけるの?
清水  近所の人に聞けばいいじゃないですか。
稲田  いや、やったことがないから分からないよ。
清水  本気でやろうと思ったら、誰でもいいから手あたり次第に聞くんです。
稲田  うーん。
清水  当時、ネオンホールの下が飲み屋で
     二階は空家っていう状態だったんですよ。
     それで飲み屋の人に不動産屋を教えてもらった。
稲田  持ち主は長野の方ですか?
清水  うん。
稲田  不動屋さんに行く前に中を見たことはあったの?
清水  まあ、当時はやたらと空家とか廃屋が好きで、
     松本に住んでた頃も廃屋を見つけたらバンバン中に入ってたんですよ。
     山にあるホテルとか、郊外の民家の廃屋とか。
稲田  それはさ、人に説明できる高尚な理念とかがあって?
清水  ううん全然。なんとなく。
     なんか...アングラな行為として。
稲田  (笑)
清水  一人で勝手にやってました。
稲田  じゃあ、ネオンホールも借りるかどうかって前から入ってたの?
清水  うん。何度も勝手に入って、夜とか友達と二人で缶コーヒー飲みながら、
     廃屋状態の部屋の中でボソボソと語り合ったりね。
稲田  楽しそうだなぁ。
     鍵かかってないの?
清水  なんか、たまたまちゃんとかかってなかったんですよ。
稲田  (苦笑)
清水  南京錠の止め穴が大きくて、簡単にするっと抜けたんだよね。
稲田  ははは。
     なんであの建物がいいと思ったんですか?
清水  だって天井抜けてるし、雰囲気も気に入ったし。
     広さもちょうどいい。
稲田  あ、もともと抜けてたんだ。
清水  内装はだいたいそのままですよ。
     特に最初は掃除しただけです。
稲田  へえー。不動産屋とはスムーズに話が進んだんですか?
清水  スムーズって感じじゃないな。
     大学の研究室の先生に怪しいやつじゃないよって一筆書いてもらったりして。
稲田  不動産屋さんは住む前提でOKくれたの?
清水  うん。
稲田  そうなんだ(ちょっとびっくり)。
清水  二階への階段上がってすぐ右側の部屋が自分の部屋で、
     今は控室になっている奥の部屋がほかの二人の部屋だった。
稲田  それは大学何年生からになるのかな?
清水  三年の後半くらいから長野で場所を作ろうって考え始めて、
     そんな頃に信大の伊那キャンパスに遊びに行ったんですよ。
稲田  うん。
清水  一年生のときに現代美術の活動を一緒にしていた風変りな女の子がいて、
     そいつが巨大なオブジェを作ってたんですよ。
     伊那のキャンパスにあった廃屋の中で。
稲田  (やたら廃屋が出てくるな)
     どんなオブジェだったんですか?
清水  いやー。
     穴を掘って、コンクリ流して、そこにいっぱい鉄とか刺して、
     固まったら引っこ抜いて、土を落としたやつとか。
稲田  ......。
清水  テレビをバーナーで炙ってみて、ガラクタと合体させた...みたいな?感じ。
     産業廃棄物で作る有機的な作品というか。
稲田  へええ。
     その人は農学部だったんですか?
清水  そう。
     ちょっと何ていうか、サイバーパンクな作品を作る人だったんですね。
稲田  その作品を見て、清水さんとしては心が動いたってこと?
清水  うん。かなり感動した。
     これは人に見せなきゃいけないって。
     で、自分がプロデュースするって言った。
     長野で展覧会する決心をして。
     展示するならやっぱり廃屋にしようと思ったんですよ。
稲田  そこからネオンホールが始まるんだ。
清水  当時はまだバブルの余韻があったから家賃も高くて。
     イベント用に一ヶ月だけなんて貸してくれるかわからなかったけど、
     もう闇雲に頼んでみようって思ってたんです。
     そしてさらに色々考えているうちに、一ヶ月だけとは言わず、
     長く借りて住んだら面白いかもって思い始めた。
稲田  ほう。
清水  そこに住むって話にして、最初の一ヶ月を展示に使おうって。
     途中から大家との交渉を切り替えました。
稲田  最初の一ヶ月から皆で住んだの?
清水  ううん。最初はそのオブジェの子が住んだ。
     住みながら、ネオンホールで作品制作してもらった。
稲田  へええ。
清水  それが彼女と作品に合ってると思ったから。
     半月で作って、半月で見せるってコンセプトで。
稲田  うん。
清水  だから最初は室内のクリーンナップだけして、
     電気と水道をつけて、はいどうぞって。
稲田  そうなんだ!
清水  彼女は元押し入れのスペースとかで寝泊まりしながら作って、
     自分たちは学校が終わったら手伝ったりとかしてた。
     美術研究会の中にも教育学部組がいっぱいいたから、
     そういう仲間で手伝ってた。
稲田  その子はその間、学校はどうしてたんですか?
清水  学校なんてあってないようなもんだから。
稲田  (爆笑)
清水  どうでもよかったんですね(笑)
     あ、九月だったから夏休みだったかもしれない。
     ぼくたちは教育実習があったけど。
稲田  清水さんも行ったんだ。
清水  うん。小学校と中学の両方行きましたよ。
稲田  楽しかった?
清水  すっごく良かった。

(ロングインタビュー 信大からネオンホール編 つづく)


ビニールハウス
信州大学人文学部にあった謎のサークル「モンゴル相撲部」のメンバーが大学祭の自主企画として始めた企画。
学内に農業用のビニールハウスを建て、ライブステージ + カフェバーとして営業した。
サークルや学生/社会人の垣根を越えたライブオムニバス企画として、数年間継続した。(清水)

スーパーネオン
毎年夏・冬と二回開催されるネオンホールのオムニバスイベント。
出演者は30組以上、90年代半ばから休みなく継続している。(清水)
七月十六、十七日に開催された今年のスーパーネオンはとにかく熱かったらしい。二日間、ぼくのツイッターのタイムラインがスーパーネオンに行った人の熱いツイートでいっぱいだった。ぼくはどうしても行けなかったのだが、当日の清水さんのツイートにはウズウズさせられた。くやしい。以下は清水さんのツイート。
『悪いことは言いません。今夜もし「スーパーネオン」に行くなら、必ず絶対に無理してでも17時半開始のアタマから観た方がいいです。恐るべき十代、「ベガ星人」を見逃すことなかれ。行く予定じゃなかった人も、考え直して観に行った方がいいです』

ブッダ
1970年代後半~80年代半ばまで、長野市のライブハウスの草分けとして存在したお店。
フリクション、アナーキー、スターリンなど、沢山の伝説的なバンドがツアーで訪れた。(清水)

空家が好き
この行動は『長野・門前暮らしのすすめ』の「門前暮らし相談所・空き家巡り」に繋がっている。
この活動が契機になって門前界隈で店を開いたり、住居を構えた人も多い。
しかし、長野市とチームになって立派な活動となっているこの企画が、「アングラな行為として」から始まっていようとは。

ネオンホール最初の展示
タイトルは『スエヨシカナコインスタレーション「有機変造体標本」』。
約二週間開催し、作品空間では演劇実験室カフェシアターや吉岡潤らがパフォーマンスした。(清水)

2011年7月13日水曜日

清水隆史ロングインタビュー 信大からネオンホール編(二/五)

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※前回までのあらすじ。
友人の兄に聴かされた信大生のフォークソングに惹かれ、信大教育学部を受験した清水さんが松本にやってきた。

稲田  それで信大に入ったと。
     どうでしたか? 実際に松本に行ってみて。
清水  よかったですよ。
     歌の中の世界に入ったとまでは思わなかったけれど、
     歌をキッカケに妄想したから信州に来たという気持ちは今でも残っていて。
     今もあの頃に描いた松本像というか信州像が頭の中にあって、
     冬なんかにフッとそこにいる自分に気付いて感動したりしますね。

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稲田  へえー(生粋の信州飯山生まれなのでその感慨は新鮮)。
     そういえば、高校時代のバンドではどんな音楽をやったんですか。
     フォークバンドだったんですか?
清水  ううん。好みというより出来ることをやったから。
     ボーカルの奴がやりたがったからBOØWYとかやった。
稲田  うわー、時代ですね。
清水  なんでもいいからステージの上に立って弾ければいいみたいな。
     あ! でも、一曲だけ自分は信大生が作った歌をやった。
稲田  マジですか! (爆笑)
清水  自分が歌ったよ。ベースからギターにかえて。
稲田  (笑) 絶対反応ないでしょう。
清水  いやー...ウケたよ、多分。
     そのときのバンドは学祭で一回しかやらなかったんだけど、結構モテた気がする。
稲田  いいなー。
     それで信大では軽音楽部に入るんですね?
清水  そう。今でもありますよ。同じ場所にボックスもあって。
     今では仕事の撮影で行ったりしてますよ。JBNさんのお仕事とかで。
稲田  お世話になっております(笑)。
清水  あ、違った...。あれは代理店さんの仕事だった。
稲田  ははは。
清水  それで、美術研究会ってのにも入って。
     自分はそっちがメインだったんです。一応部長だった。
稲田  (高校のときと同じような動きしているなぁ)
     美術研究会ってなにやるんですか?
清水  絵を描くんです。
稲田  ああ。好きなんですねー。
清水  でも、そのときの美研って変な人ばっかりで。
     絵を描かない人がいっぱい入って。先輩とかは怒ってたけれど。
     インスタレーションするとか、パフォーマンスするとか。
     演劇やる人とかもわんさか入ってきて。カオスみたいになってた。
     自分も美研のなかでバンド組んだりした。
稲田  ふーん。
     そういえば、大学では演劇にどう関わっていたんですか?
清水  学外と関わりのある学内の劇団、みたいなところに入ってました。
     演劇をやっている人をボーカルにしたバンドをやってみたいって
     高校の終わりくらいから思ってたんですよ。
稲田  ほほう。
清水  不条理芝居をやっているようなちょとおかしいような人をボーカルにして
     パフォーマンスをやるようなバンドをしてみたかったんですよ。
稲田  ぼくはミドリってバンドが好きだったんですけど、あんな感じ?
清水  もっとおどろおどろしい感じというか...。
     「お病気シアター・リュウマチ」っていう名前の劇団に入って、
     そこの人を誘ってバンドを作りましたよ。ヒエラルキーってバンド。
     そこの若手では看板的だった女優の子をくどいて。
稲田  その子も信大?
清水  信大。
稲田  出来はどうだったんですか?
清水  けっこう面白かった。多分、まわりの人々からは評価されて、
     ローカルのテレビに出たりしましたよ。
     コンテストで入賞したりとか。
稲田  へえー。
清水  演奏は普通なんだけど。やってることが変わってたんですね。
     ステージで磔(はりつけ)にして動けないやつに歌わせるとか。
     全員で包帯巻いてステージに立つとか。
     ボーカルの奴は筋金入りで、今でも松本の「経帷子(きょうかたびら)」という劇団でやってますよ。
稲田  今でも?
清水  うん。五月のあがたの森のクラフトフェアでは白塗りして舞踏してました。
     舞沢智子っていって、(長野のアングラ劇団である)カフェシアターの舞台にも出てたりしてます。
     彼女が寺山修二とか唐十郎とか詳しくて、
     バンドに誘ったら逆に彼女から色々と仕込まれた感じ。
稲田  あ、そうなんだ!
清水  「清水くん、寺山とか知らないんじゃだめだよ」って感じで。
     そういうのをやってる劇団を一緒に観にいったりして、「ああ、最高だね」ってやってた。
稲田  へえ。
清水  で、バンドもこういうのやろうよって。
     曲中にドラマが始まったり、8ミリフィルムの映像と合わせて演奏したりとか。
     ステージにむやみに石膏像を置いたりとか。
     そういう演劇的なことをいっぱいやってた。
稲田  それ大学何年生くらいですか?
清水  一、二年くらいかな。
稲田  突っ走りますねー!
清水  そう...かなあ?
稲田  それって、中学や高校時代に
     「おれ、こういうことやりたいけど周りに合う奴いないし、チクショー」みたいな?
清水  うん。大爆発して。
稲田  (笑)
清水  したい放題してた。
     メンバーでボディペイントして松本市内を練り歩くとか。
     白塗りして中原中也を松本パルコの前で朗読するとか。
稲田  いやだなぁ(笑)。
     信大ってそういう変な人ばかり集まるんですか。
清水  常にそういう人ってどこにでもいるんじゃないですか。
稲田  そうかなあ。
     そういう人として中学高校のときはどう過ごしていたの?
清水  妄想してた。田舎の高校生だったから。
     月に一回大阪に行って、レコード屋を漁って分からないなりに聴いて妄想したりとか。
     それで大学に入って一気に行動力がついて自由になった。
稲田  清水さんて信大の教育学部でしょ?
     松本で一年やって、二年からは長野だよね。
清水  うん。でも、留年したしね。
稲田  敢えて?
清水  うーん、演劇と音楽で忙しかったし、まあいいかって感じでしたね。
     当時はバブルだったので周りも余裕な雰囲気だったし。
     松本での二年は音楽とか演劇を思う存分やった。
稲田  それで進級して長野に行くんですよね。
     そこでも音楽や演劇をやったの?
清水  長野は規模としても小さいし、先生になるための勉強が忙しかった。
     松本みたいに人が多くなくて、やりにくかったです。
稲田  そうえば、清水さんは何で教育学部に入ろうって思ったの?
清水  祖父が教師で、先生になるのがいいかなーって思ってた。
稲田  ふーん。それじゃあ、大学生のころはいずれ先生になるだろうなって?
清水  迷ってた。
     何となくアーティストになりたい!って思ってたんだけど。
     アーティストって何かも分からずに。絵を描きたいとか、音楽がしたいとか。
     表現することを生活の糧にしたいと思ってたんだけど、どうしたらいいか分からないし、
     どう動けば仕事になることに近づけるのかも分からなくて、
     見本になる人もいなかったから、具体的な術がわからなかった。
稲田  うん。
清水  でも、学校が好きだったから。小中高と。
     小学校か高校の先生もいいかなーって迷ってた。
稲田  え! 好きだったんだ。
清水  うん。大好きだった。
     小中高の卒業間際の三学期になってくると朝早く学校に行くんですよ。
稲田  もっといっぱいいたいから?
清水  うん。一日一時間多くいれると、一週間で六時間増えるよっていうくらい。
     受験勉強も学校の図書館に行ってやって、後輩と会ったりするとか。
稲田  そうなんだー。すごく意外。
     ぼくはてっきり、変わった趣味の人同士で固まっていた学生時代かと思っていましたよ。
清水  いやー。そういうんじゃなかったな。
     ヘンなものは好きだったけど、自分のいる環境を愛そうとする癖があるんですね。
     きっと同じですよ、今、自分の街が好きっていって、そういう活動につながってるのと。
稲田  ああ、なるほど!
     そういうのはどういう資質で始まるんですか。
清水  分かんない。
     性格じゃないかな。
稲田  へえー。
     ぼくはそういう「自分の街を愛する」という気持ちを
     リアルに知るようになったのが本当にこの一、二年なので、
     清水さんが自分の性格として身につけてこられたとういうのが想像できないんです。
     スイカを食べたことがない人にスイカの味を想像できないように。
清水  分からない人には分からないのかもしれませんね。
稲田  ここの一、二年でなんとなくスイカという物の存在を知って、
     興味を持ち始めているっていう感じなんですけど。
清水  自分はスイカからのスタートだから。
     なんで信大の人たちが作った歌が好きになったのかも分からないし、
     同じころに実家のそばにある超小さいライブハウスのアマチュアバンドが大好きだったとか、
     高校時代の友だちのバンドが好きとか、学生の8mm映画が好きで今もビデオを見返したりしてるとか。
     元々は根っからのアマチュア好きなんですよ。
稲田  へえー。
清水  今はけっこう違うけどね。元々はそうで。
     足りない環境で頑張ってやってる表現が好きで。
     上から目線とかじゃなくて、多分すごく共感するんですよ。
     裏返せばメジャー嫌いというか。
稲田  学校の先生に向いている気がしないでもないですね。
清水  テレビとか大嫌いで、
     顔の見える人が顔の見える人に対してやっていることが好きだったんです。
稲田  うーん、なるほど。
     それで、充実の松本キャンパスから勉強が厳しい長野に移りますよね。
     長野では音楽とか演劇とかどうしてたんですか?
清水  だから、長野でネオンホールをやったんですよ。
稲田  あ! そういうことになるんだ。
清水  うん。松本にいたらやらなかった。
     そういう場がないから自分で作ろうって。

(ロングインタビュー 信大からネオンホール編 つづく)


歌の世界
信州大学児童文化研究会の腰原仁志さんらが1980年代半ばに作った一連の曲を指す。(清水)

信大軽音楽部
その名の通り、信州大学の軽音楽部。
webサイトによると「部員は50人を超す信大内軽音サークルの中でも大所帯を持つモンスターサークル!」とある。
そうなのか。
ネオンホールのライブに行くと「ビートルズ研究会」のバンドをよく目にするが、
当時は演奏活動を行うサークルではなかった。(この二行、清水)
そういえば、7月17日のイベント「スーパーネオンホール'11 サマー」に出演する
ゴーグルエースは信大軽音楽部出身である。

舞沢智子
学生時代に清水らとヒエラルキーというバンドを結成、
当時の名前は「竜マチ子」。
1990年代から現在に至るまで松本市を中心に演劇活動を行っている。
「お病気シアターリュウマチ」「劇団ちまうり」
「演劇実験室経帷子」「演劇実験室カフェシアター」などに出演。(清水)

演劇実験室 経帷子
松本市を拠点に活動する劇団。寺山修司など、いわゆるアングラ演劇を制作している。
市内の劇場での公演の他、街頭でのパフォーマンスも行う。(清水)

演劇実験室カフェシアター
70年代前半に寺山修二率いる「演劇実験室 天井桟敷」に入団された中沢清さんが、
長野に戻って家業を継ぎながら旗揚げした劇団。
フリーペーパー『日和』に清水さんが連載している「ナガノスタイル」72号に詳しい。
清水さんの筆致を抑えながらも、中沢さんの「アングラ魂」に気持ちが熱くなっている文章が読めます。

※(清水)表記は清水さんが注釈してくれたもの


2011年7月11日月曜日

清水隆史ロングインタビュー 信大からネオンホール編(一/五)

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七月一日、奈良堂にて。
黒いTシャツ姿で清水さん登場。

稲田  あ、どうも。
清水  遅くなってすみません。
稲田  いえいえ、お忙しいところに申し訳ないです。あれ、上半身がかなり締まってきましたね。
清水  ああ、筋トレしてますからね。
稲田  うーむ、本気ですね。
清水  本気ですよー。今年の後半のことを考えると嫌な夢を見て朝の四時に跳び起きたりね。
稲田  えー、漫画みたい。
清水  ほんと、漫画みたいですよ。

―これからしばらく、今年の後半の活動についての話題になりますが、それはまた別の話。
  でも、個人的にもとても楽しみです。

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稲田  今日はですね、清水さんがネオンホールをいかに始めるにいたったかという話をお聞きしたくて。
清水  はい。ええ。
稲田  いま、長野市善光寺の門前界隈は古い家屋を活用した方法論がとても活性化していますよね。
     人が住むところとしても、お店を開くところとしても。
     ボンクラや1166バックパッカーズ、マゼコゼ、FLAT FILEがこの二年でぞくぞくとスタートし、
     今年の六、七月はBook &Cafe ひふみよ、遊歴書房、チャンネルブックスと三店も本屋が開店となった。
     で、ぼくは傍観者に過ぎないんだけど、
     「これはいったい何なんだ」と驚いたんです。素直に。
清水  はい。
稲田  いま目の前で起こっている「門前の動き」について、
     何が起こっているのかということがぼくには捉えられない。
     興味は湧いてきたんです。でも捉え方が分からない。そもそも方法論を持ってない。
     そんなときに、「あ、清水さんの視点を借りて観ればいいんだ」って気づいたんです。
     一方的ですけど。
清水  はい(苦笑)
稲田  清水さんはネオンホールというライブハウスを二十年ほど続けていて、
     編集室兼喫茶店兼ギャラリーのナノグラフィカも十年近くやってられますよね。
     共に使われてなかった長野市の家屋を利用して。
     また、自分たちの街をテーマにした『街並み』という冊子もあって、
     自分たちが住んでいる街を基点にした活動をずーっと続けている。
     しかも活動と暮らしがマッチングしていて、門前界隈の方たちと暮らしに根づいた
     近しいおつきあいも重ねている。
     清水さんと出会ったときには「清水さんってそういう人なんだ」と思っていたんだけど、
     今の門前の動きに興味を持つと、いったい清水さんはどんな考えで、
     どんな流れでこうなったんだろうって知りたくなったんです。
清水  ええ。
稲田  前置きが長くなりましたが、清水さんが長野に来てから過ごした
     この二十年を聞かせてもらうことで、長野の門前の今を見る視点が
     一つ得られるんじゃないかとそう思っているんです。
     あと、本心をいうと清水さんが過ごした二十年に
     個人的にとても興味があるんです。
     清水さんは奈良の出身でいいんですよね?
清水  ええ。奈良といっても文化的にはほぼ大阪って感じでしたが。
稲田  いつから音楽って好きになったの?
清水  うーん、変な道に入ったのは中学くらいからかなあ。
     レコード屋にある中でちょっと(主流と)外れたレコードを探して何件もハシゴしたりとか。
     地方都市だし、今ほどマニアックな時代じゃないから
     見つけられるレコードも高が知れてるんだけどね。
稲田  普通さ、音楽を好きになるきっかけってあるじゃん。
     お兄ちゃんの影響とか...
清水  だからぼくがその兄ちゃんだった(笑)。長男だし。
     弟にいっぱい聴かせた。
稲田  あ、そうなんだ(笑)。楽器もそのころから始めてたの?
清水  高校一、二年くらいかな。
稲田  誰かに誘われたの?
清水  友達の兄貴が信大生で、帰ってくるとコード譜をくれるんですよ。
     それで弾いてみようかなって。
稲田  もうそこから信大が(笑)。そのときはフォークギター?
清水  そうそう。それで高校でバンドを始めて。軽音とかは入ってなかったんだけど。
     漫研で部長だったんだけど。
稲田  え? 高校で漫研があるの? めずらしいね。
清水  そうかな? オタクっぽくはなかったけど。同人誌とかも出してたよ。
     ガロとか好きだったんで、難解な漫画を描きたくて。描いては途中で止めたりしてた。
稲田  えー、その頃からそういうの好きだったんだ。
清水  絵は中学の頃から好きで描いてたんですよ。
     でも、中学の頃ってそういうの馬鹿にされるからさ。
稲田  うんうん。そういう仲間がいないもんね。
清水  一人だけそういう話ができるやつが、信大に行った人の弟で親友だった。
     彼は小説を書いていて。
     ぼくとはタイプが違うけどすごく仲が良くて絵を見せたりしてた。
     それで高校に入って漫研があることを知って、「人前で絵を描いていいんだ!」って。
稲田  おお。うれしいよね。
清水  先輩たち同人誌出してるよーって。
     本を作って人に見せるって発想は無かったと思って。
稲田  楽しかった?
清水  楽しかったよ。グループ誌みたいの作って学祭で売ったりして。
稲田  ふーん。そういえば、さっきの友達のお兄ちゃんってどんな譜面をくれたりしたの?
清水  信大の
稲田  信大の!?
清水  信大の人が作ったフォークソングみたいなやつ。
     オリジナル歌集みたいなやつ。
稲田  プロのじゃないんだ!(驚)
清水  あ、歌える歌としてはチューリップとか好きだったよ。
稲田  その頃でも古いよね。
清水  古い古い。古いものとして好きだった。
     高校当時のチューリップはもうシンガーソングライターになっていたけど
     そんなに好きじゃなくて、七十年代前半のチューリップが好きだった。
稲田  自分でもそういうの演奏しつつ、信大生のもやったってこと?
清水  ううん。信大生の方が先だったし、メインだった。
     チューリップはサブって感じ。
稲田  メインなんだ! 楽しかったですか? 信大の歌?
清水  すごいいっぱい歌があるんですよ。ニューミュージックみたいなやつが。
     松本がテーマになっている歌も多くて。それがすごく好きだった。
     その頃からそういうミュージックに興味があったのかもしれない。
稲田  ふーん。
清水  ある一部の人しか知らないことを、ある一部の人が歌うってことにけっこう感動して。
     『松電バス賛歌』とかあるんですよ。
稲田  (笑)
清水  松本のことって知らないのに、それを聴いて、
     そういう行為ってすごくいいなー美しいな―って思って。
稲田  渋い高校生ですねー。
清水  まだ見ぬ松本に憧れて。
     松本が好きっていうよりも、歌に歌われている町が好きで。
稲田  (笑)。それで信大を受けようってなったんですか?
清水  なったなった。完全になった。

(ロングインタビュー 信大からネオンホール編 つづく)


ボンクラ
長野市善光寺門前の蔵を自分たちの手で再生し、オフィスや店舗として活用している集団。
メンバーは建築士・編集者・デザイナーたち。
深遠な考えをもって活動しているようにも見えるし、
面白いじゃんという思いで動いているようにも見える不思議な団体。

1166バックパッカーズ
いまや何年も前から開店しているかのような存在感をもつ長野市西町のゲストハウス。
しかしまだオープン一年なのだ。
善光寺に訪れる外国からのバックパッカーたちのニーズにみごと応えた(と思う)。
宿なのにさまざまな人が訪れては(宿泊客にあらず)酒を飲み語り合う不思議な場所となっている。

マゼコゼ
長野市長門町の古い蔵を活用してカフェMAZEKOZEをオープン。
ここの二階は蔵ならではのやさしい光と影の折り合いがとても気持ちいい。好きです。
RIKI-TRIBAL(リキトバル)という屋号で美術全般のお仕事やカフェ経営を御夫婦でされている。
ぼくはここの『マゼコゼ日記』というブログの熱心なファンである。好きです。

FLAT FILE
長野市桜枝町の古民家を活用してポスターのセレクトショップ、額縁のオーダーメイド、ギャラリーを経営されている。
同店でオーダーした額縁を持っている友人はぼくのまわりに多い。実はうらやましい。
とっても気になるお店なのですが、お噂だけでまだ行けてないのです。行きたい。

Book &Cafe ひふみよ
長野市三輪の元酒屋をこつこつリニューアルして2011年6月にオープンした古本&カフェ。
一階が古本屋、二階がカフェになっていて、お茶と一緒にゆっくり本が読める。
二階の大きな窓と、卓袱台&畳のカフェスペースの居心地の良さは素晴らしい。
ぼくは二階で店主と飲み会をした際に朝まで熟睡してしまい、慌てて帰宅したことがある。
しかし、この店名は秀逸。

遊歴書房
ボンクラのオフィスがある古い蔵でオープンした古書店。
方位磁石を彷彿させる店の作りと本棚。骨太な本のセレクト。
四面を天井一杯まで本棚で取り囲むのは本読みたち共通の夢だろう。うっとりしてしまいます。
同店のテーマソングをオープニングにお披露目した安斎くん
やはり門前の古い家屋に気持ちよく手を入れて住んでいる。

ch.books
長野市南県町の元カメラ屋をリニューアルして2011年7月にオープンした本屋&編集室&デザイン室。
一階が本屋、二階が仕事部屋となっている。
一階ではアートと旅をテーマにした本をセレクト。グレゴリ青山が好きなようだ。
(と書いたら、グレゴリ青山はもう二冊売れて残り二冊だから修正求むと連絡が来た。素早い。あと二冊だそうです。ちなみに売れた二冊はぼくが買いました。面白かったです)
奇しくも同店のメンバー全員がぼくの前職の同僚だった。
オープニングパーティには行けなかったのだが、
用意された酒の量が尋常ではなかったという評判を残した。

ネオンホール
清水さんが信大生時代に友人たちと立ち上げた長野市権堂の小劇場かつライブハウス。
来年二十周年を迎える。
『信大からネオンホール編』では如何にネオンホールを始めたかの話になる、はず。

ナノグラフィカ
清水さんとタマちゃんたちが立ち上げた長野市西ノ門町の編集室兼喫茶店兼ギャラリー。
来年十周年を迎える。
次章の『ネオンホールからナノグラフィカ編』で如何にナノグラフィカを始めたかの話になる、はず。
独特の存在感を発した企画・発行物を実現しつつ、西ノ門町の住人としてみごとに溶け込んでいる。
タマちゃんがナノグラフィカで自宅出産した福太郎(元気な五歳児)が
これからどんな人間になるか個人的に楽しみ。

『街並み』
2005年から編集発行し続けているナノグラフィカの小冊子。
カラー40P、モノクロ8P。現在で41号に至る。
息の長いファンも多く、1166バックパッカーズでは外国の方も興味深く手に取られるそう。
「どうしてこんな色で写真が撮れるんだろう?」と不思議がる外国の方もいたそうな。

2011年6月11日土曜日

震災後、宮城・福島に行ったこと。


お久しぶりです。

web制作の仕事をしていながら、ずうっとブログの更新ができずにいました。いろいろ原因はあるのですが、やはり三月十一日の震災の影響がぼくにとってはとても大きいものでした。

被災された方々の日常はいまだ回復せず、東京電力の原発崩壊もその収束が見えず、政府からの勇気と光を提示するメッセージも届かず、三ヶ月前と何が改善されたのか分からない状況だと思います。

それでもぼくたちは生きているし、このろくでもない状況に茫然とする期間から、現実を受け止め、教訓を学び、前に進まなければならないのだと思うようになりました。

ぼくは四月十日から一週間、会社にお休みをいただき、宮城県石巻市にボランティアに行かせていただきました。
現地では学校の体育館に避難されている方へお湯を配ったり、津波に呑みこまれた個人住宅のヘドロ撤去や家屋整備などをやらせてもらいました。実際に現地に行ってさまざまな方とお会いし、被害を受けた現場を見ることで学ぶことも多い一週間でした。
現地であたたかく迎えてくれたボランティアスタッフの皆さん、いろんなお話をしてくださった被災地の皆さん、忙しい時期に我儘を許して一週間行かせてくれた会社の皆に本当に感謝しています。

宮城・福島から帰ってきて、何人かの方に「被災地のことを話してほしい」と促されたのですが、ぼくはなかなか話せませんでした。話してほしいと言ってくださる方たちは被災地のことを知ることで自分もできることがあるんじゃないかと思われたりと前向きな視点で言ってくださる方もいらっしゃったのにぼくはうまく話せませんでした。

ぼくは「被災地の方のためじゃなく、自分のために行った」という思いが強く、それをうまく説明できませんでした。

そんなとき、ある人に「被災地のためじゃないなんて理解できない。ちゃんと説明してほしい」と言われ、自分の言葉でどういえば伝わるのかとしばらく考え込みました。

多くの方もそうだったと思いますが、ぼくは三月十一日からの一ヶ月は震災のことしか考えられませんでした。寝ても覚めても頭の中は震災のことでいっぱいでした。呪いのように。

テレビの向こう側で津波に呑み込まれ人が亡くなっていく姿、原発がどんどん崩壊していく姿にぼくは茫然としました。波に呑み込まれていく人々はぼくであったし、絶望的に崩壊していく原発はぼくが容認してきた社会でした。三月十一日を境に、それらはぼくの中に入ってしまいました。否応なく。大きな影と共に。

なかでも大きかったのが、東京電力の原発崩壊でした。原子力発電所が日に日に崩壊していく姿を見て、福井の方の被害地域が日に日に拡大していく状況を見て、「これは、ぼくも共犯者じゃないか」と思いました。

ぼくは三十七年間生きてきて、原子力発電に対して、またその管理システムや監視体制に対して明確な態度を示さず、既成事実として認知してきました。崩壊していく原発と拡大していく被害は、ぼくが容認してきた社会システムの結果でした。

原発容認派か否定派かという話ではなく、目の前でどんどん崩壊していく東京電力の原発は、自分が内包された社会であり、その社会に対して無関心という票をぼくが投じてきた結果でした。その点において、ぼくは世界を崩壊された者であり、同時に共犯者でした。

ぼくは幸運にも直接被害を受けなかった。そして、世界はまだ続いていくらしい。
ぼくは共犯であることを認め、そこから学び、再出発しなくてはいけない。生きていくなら。
そんな気持ちで四月を過ごし、五月が通り過ぎ、六月を迎えました。
あの三月十一日から、今日で三ヶ月を迎えます。

この期間に御承諾いただいた仕事として、太陽光発電においてスペースコストやメンテナンスコストを削減でき、山岳地帯や海岸沿い、ビルや既存インフラなどでの利便性が高い両面発電が可能なシステム、採光型両面太陽電池「サンジュール」の特設webサイトを制作させていただけることになりました。(長野市の矢木コーポレーション様)
今の自分にできる精一杯のことと、多くの方の力をお借りして、良いものを作りたいと思います。

そして、今日から改めて日々の楽しいことや胸にぐっときたことなどを綴らせていただきたいと思います。
これからもどうぞよろしくお願いします。


床下のヘドロ撤去をさせていただいた宮城県石巻市ご夫婦と孫のコテツくん。ご夫婦の人柄もあって楽しい時間でした

四月十一日から一週間、宮城・福島へボランティアに行った間のツイートをまとめました。
よかったらご覧ください。

http://togetter.com/li/147174