2011年8月22日月曜日

「最近の稲田さん、門前界隈に積極的に関わってますよね」とちらほら耳に入るようになった。

「最近の稲田さん、門前界隈に積極的に関わってますよね」とちらほら耳に入るようになった。

もうその通りなので何もいうことはないのだけど、
ぼくのことを以前から知っている人ほどちょっと不思議に思うみたいだ。
基本的に出不精で、見知らぬ人と会ったり、イベントやパーティーなどを苦痛として生きてきた人間なので、
「稲田になにがあったのか?」という気持ちになるのもわかるなあと思う。

ボンクラが立ち上がった二年くらい前から門前の動きがぼくにも分かるくらい活性化してきて、
「いったい何が起きているんだろう?」という気持ちは生まれていた。
それでもぼくは門前界隈の友人も少なく、傍観者としての立ち位置は特に揺るがなかった。
興味があるけど何もしないという感じ。
正確には「興味はあるけど何をすればいいのか分からない」感じ。

一番大きな転換期となったのは今年六月六日に行われたボンクラ・ゼミナールだった。
講師は東京R不動産の馬場正尊さん(Open A)。
さまざまなリノベーションを実現されてきた方なのだが、
正直ぼくは会場に行くまで知らなかった。
馬場さんのお話は全てが具体的でとても面白かった。
刺激を受けた建築関係者や学生はたくさんいたと思う。

でも、ぼくが一番びっくりしたのは「面白がっていいんだ!」という視点だった。
馬場さんの話の根底には「この案件、面白そうだ」という純粋な興味がいつもあるように思え、
リノベーションされた実例をプロジェクターに写すたびに「ね!いいでしょう!」と
目の引力を増しながら話す馬場さんの姿にびっくりした。

ぼくが傍観者であることは変わらないし、
これがぼくの特性であることに自分自身不満はない。

でも、傍観者でありつつ、今の門前の動きを面白がってもいいのかもしれないと思った。
ぼくは店舗経営者でもないし、建築関係者でもないし、人を魅了する表現者でもない。
ぼくはボンクラ・ゼミナールで馬場さんの話を聞くまで、
門前の動きとは「何かしらの表現者たちが中心となること」だと思っていた。

それはある程度の側面を持っているかもしれないけれど、
面白がるということで、門前に関わるという位置を持てるんだと思った。

コペルニクス的発想でいえば、
発信側だけに全ての価値があるのではなく、
受け手側にも価値創造の余地があるんだと思った。

ちょっとややこしい言い方ですね。

店舗経営者や建築関係者や表現者たちが何かを発信して完結なのではなく、
受け手側であるぼくは、発信されたものについて
「どういう受け取り方をするのか」「どう面白がるのか」ということで
新しい何かや価値の増大は生まれるのかもしれないと思ったのです。

「巻き込むことの重要性」はよく言われるキーワードだけど、
それだけだと発信側への傾きが大きい。

発信者側が半分、受け手側が半分。
発信して、受けて、それで初めて一つの完成が生まれるのだと。

ぼくはこういったことに全く無知なので
「そんなの当たり前じゃん」というようなことなのかもしれないけれど、
そう考えた時に初めて、門前が自分と関係のあることとして捉えられるようになった。

以前からお誘いを受けていたのにあまりピンときていなかったNgeneに寄稿することも
「ぼくが門前をどう面白がっているのか」の視点だったら書けるなあと思った。

ネオンホールの清水さんのロングインタビューもその一つで、
もうすぐ『信大からネオンホール編』が終わり、
『ネオンホールからナノグラフィカ編』
『ナノグラフィカから街並み編』を予定している(たぶん)。

ぼくが何をしたいのかよく分からなく(ぼくがそういう人間でないこともよく知っている)、
最初はおそらく戸惑っていたであろう清水さんも何となく理解してきてくれているみたいで(たぶん)
『ネオンホールからナノグラフィカ編』も楽しみですと言ってくださった。うれしかった。

『ネオンホールからナノグラフィカ編』ではいよいよ清水さんたちが
街にどう関わっていくのかのお話が聞けるんじゃないかとわくわくしている。

ぼくは基本的に人に臆病で高い壁を張りめぐらしている人間なのだけど、
「受け手側の立場からいまの門前を楽しんでみよう」という視点を得ることで自由になった。
だいいち、楽しい。
街に知り合いが増えて、興味あることがらが日々の中にあることが楽しい。
ちょっとだけ知り合った音楽家がいまはどこで歌っているんだろうとか、
ふだんなら行かないであろう大学生の駅前ライブに顔を出すとか、
好きな人の作品や活躍を少しだけ近いところで見てとれるとか。

「ぼくは今、そんな風に人と街に関わろうとしているんですよ」という
いろんな人に向けた私信のようなコラムでした。

2011年8月21日日曜日

清水隆史ロングインタビュー 信大からネオンホール編(四/五)

simizu-4回目.jpg

※ 前回までのあらすじ
権堂で長年空家となっていたスペースを見つけ(勝手にもぐりこみ)、
バンド仲間三人で共同住居を兼ねたステージとして借りようと決意した清水さん。
しかし、同時期に小学校と中学校に教育実習にも行くので忙しい。

shimizu-04.jpg

稲田  信大付属の小学校と中学校に教育実習に行ったんだ。
     それで楽しかったと。 
清水  うん。楽しかったですね。
稲田  なんの教科を教えるんですか?   
清水  中学は美術で、小学校はもちろん全教科です。
稲田  そっか。
     中学と小学校はどっちが楽しいのかな。
清水  そりゃ小学校でしたよ。
     子どものパワーが違うから。
     小六を担当したんだけど野生人間みたいでよかった。
稲田  へええ。
     そういうことをいう清水さんを理解できなくはないんだけど、
     やっぱり意外だと思っちゃうんだよね。
清水  実習をやって感じたことがあって。
     当時はネオンホールを借りるために大家と交渉している時期で、
     マイナーのバンドとか演劇、現代美術の世界を作り上げるために、
     ひたすら斜に構えていたような感じだったんですね。
     自分の美意識を構築しながら、
     このバンドはこの時代が最高にかっこいい、
     このアートはこれだからつまらない、
     思想を具現化したようなファッションを追求すべきだ...
     とかやっていました。
     今思うとちょっと恥ずかしいけれど、当時はもう真剣だった。
     でも、教育実習に行ってみるとまず格好からしてジャージだし!
     帽子なんか被れないし(清水さんは四六時中帽子を被っている)、
     もう全部剥ぎ取られて、そこで六週間も頑張らなきゃならない。
     「あ、そういう世界なんだ」と観念したんですよね。
稲田  うん(おもしろいなあ)。 
清水  中学校の教育実習では一クラスで七人実習生が入るんですよ。
稲田  そんなにいるんだ! 
清水  一つのクラスに数学科とか理科科とか体育科とか各教科が一人ずついるんです。
     それで各々が教壇に立って授業をやるわけだけど、
     自分は曲がりなりにも舞台に立ったり、
     バンドのライブ演奏したりプロデュースしたりしてるわけだから
     なんとなく自信はあったんです。
稲田  うんうん。 
清水  でも、普段は走り屋で峠を攻めているやつの
     授業が面白かったりするんですよ!
稲田  おお。 
清水  ふだん「トレンディーとは何か」みたいな
     ハウツー本を読んでるようなナンパな奴の授業も、
     なんか妙に納得できるんですよ!
稲田  おお! 
清水  子どもたちが「わあ!」ってよろこんでるし。
     で、自分の授業はあんまり面白くなかったりして。
稲田  それはまるでライブだね。 
清水  そうそう。
     結構ショックを受けて。
     いつも「表現とは?」「アートとは?」とか言ってるけど、
     子どもに伝えられる術を持ってないじゃんって。
     発想の自由さ、素直さとかは走り屋やナンパ君の方がよかったりして。
稲田  うーん。 
清水  子どもを前にしたら理屈は一番じゃないんだと。
     アートの知識とか、理論構築できてるかとかじゃなくて。
     剥き出しだったり、しまいこまれたりしてる感情をキャッチして、
     いかにこう...正直に受け取って、その場で返せるか、みたいな。
     コミュニケーション力がすごく大事で、それは理屈だけじゃ得られない。
     普段から他者とどういう距離でどう関わっているか、
     どうやって他者に想いを伝える努力をしてるかが、とても大事なんだなって。
     格好付けてガードしてるようじゃだめだって強く思った。
稲田  うんうん。
清水  それでショックを受けて。
     実習だけじゃなくてネオンの準備で忙しい中だったけど、
     今まで全然接点がなかったような、話もしなかったような
     タイプの奴らと正面からじっくり付き合ってみたら、
     それぞれやっぱり面白かったんですよね。
稲田  うん。
清水  めっちゃ仲良くなって、皆で一丸となって授業を作ったりしました。
     とても楽しかった。
     それで思ったのが...「あ、自分が悪かった」と。
稲田  (笑)
     清水さん、そういうところエライよね。
清水  理屈とか理想ばっか言ってる場合じゃないって。
     当たり前だけど、趣味とかセンスとかが違っても、
     人としてわかり合えるポイントは沢山ある。
     自分一人のできることなんて限られてるわけだし、
     色んな人の面白い点をわかって楽しめる方がいい。
     アートとか表現とか言うなら、閉じてちゃ駄目だ、
     子どもとか走り屋(笑)とかとも交われるくらいの
     力がなきゃだめだと思ったんですよ。
稲田  なるほどなあ。
     その思考は正に今の清水さんに繋がっていますね。
     きっとそのタイミングでそう思える出会いがあったことは
     ネオンホール立ち上げ時にも重要だったような気がします。
     そういえば、タマちゃんとも実習で知り合ったんでしたっけ。
清水  そう。
     タマちゃんは隣りのクラスで体育の実習生だったんですよ。
稲田  タマちゃんも信大時代から
     音楽とか演劇とかやってる人だったんですか。
清水  自分でやってはいなくて、遠目から見てるって感じかな。
     前から怪しい奴だとは思ってて、実習で知り合って以降から
     いろいろ一緒にやるようになりました。
稲田  そうなんだ。
     そのときはネオンホールはどういう状況ですか?  
清水  契約の交渉中でしたね。
     それでインスタレーションをする女の子にしょっちゅう状況を説明してた。
     交渉中に教育実習だったので、先方からよく職員室に電話がかかってきたりね。
稲田  ああ、まだ携帯もない時代だもんね。 
清水  職員室の電話つかって交渉したりして。
稲田  ははは。
     ネオンホールの契約OKはいつ頃になるんですか。 
清水  正式な契約は教育実習が終わってすぐくらいかなー。
     実習が終わったのが九月の半ばで、
     展示会は十月の頭からだったかな。
稲田  それがネオンホールのオープン? 
清水  そう。オープニングイベントですね。
     一九九二年。
稲田  そっかあ。
     来年で二十年ですよね。何かやるの? 
清水  スタッフ間で企画してる状態です。
     十五周年のときは芝居をやったんですよ。
     久しぶりに演出をやらせてもらいました。
稲田  十五周年は唐十郎の『ジャガーの眼』をやったんですよね。
     ぼくは行けなかったんですけど...
清水  (睨む)
稲田  (苦笑)あれは公演してよかったですか。 
清水  (睨みながら低い声で)すごくよかった。
稲田  ああ、行けばよかったなあ...。
清水  しんどいけど、ホント楽しかった。
     一生忘れないです。
稲田  うう...。
清水  まあ、来年も何か演劇をやることになるのかなあ。
     哲郎と夏海がやると思えば。
稲田  あ、その辺は明確に分けているんですか。
清水  もちろん。
     今のネオンホールはあの二人のものだからね。
稲田  ネオンホールが清水さんたちからスタートして
     今の哲郎さんたちで実行スタッフは何代目くらいになるの?
清水  三代くらい?かな。
稲田  そうなんだ。
     それでネオンホールがスタートして、
     このネオンホールで大学残りの一年を濃いものにしようと思っていたんですか。
清水  残り一年とは思っていなかったな―。
     大学院にも行こうかと考えていたし。
稲田  ふーん。
     それで、ネオンホール最初の展示会は
     (スエヨシカナコインスタレーション「有機変造体標本」)
     やってみていどうだったんですか?
清水  当時は長野でそんなことやる人があまりいなかったのか、
     オープンすること自体は割と話題にしてもらいました。
     テレビやら新聞が来たりもして。
     たしかSBCとNBSがネオンホールオープンと展覧会を
     合わせて取材してくれたんじゃないかな。
稲田  ふーん。
     そもそも、当時はそういった古い家屋をつかって
     若者たちが店をオープンするってことは珍しかった?
清水  多分、全然なかったと思います。
稲田  取材の人たちにオープンすることの意図説明が
     大変ってことはなかったんですか。
清水  いやー、まあ今の「シンカイ金物店」と似たかんじですよ。
     学生が何か新しいことをやってると。
     そこには当然迷いもあるんだけど、それも含めて面白いかもと。
     実際そういう感じだった。
稲田  そっか、そう考えればいいのか。
     十月はオープニングのインスタレーションがあって、
     十一月から本格的に住み始めるんですね。
清水  そう。
     でも十一月も何かしらあって、パフォーマンスをやったり、
     たしか音響的なインスタレーションをやりたいって奴が現れて、
     「じゃあ、やろう」と。
     十二月には自分たちのバンドも含めたライブをやりました。
稲田  最初から盛りだくさんだなあ。
     ライブの音響とかはどうしたんですか。
清水  借りました。
     音響関係は信大の軽音楽部から借りて、
     イスは権堂のライブスタジオからお金を払って借りて。
     最初はイスすらなかったからね。
稲田  一番最初にお金をとったイベントがそのライブ?
清水  そう。
     チケットは五百円だったかな。
稲田  そもそもネオンホールは、
     住む人の家賃であの空間が成り立てばいいやっていう
     発想からスタートしてるじゃないですか。
     そのお金をとることへの考え方ってどう思ってたんですか。
清水  うーん。
     自分たちが企画してライブをやってみたらお金が入ってきて、
     それは結構うれしかったんだけど、
     基本的には「自分たちが場所を貸してお金を儲けるのは悪だ」
     という発想が当時あったんですよ。
稲田  ん?
     今もあるんですか?
清水  今はないよ。
稲田  悪って発想は何でですか?
清水  単純に、表現したい人はして当然で、
     場を持つ人は、表現したいと言われればやらせる義務がある。
     お金取るとかあり得ないだろうって。
稲田  うーん。
     じゃあ、場所代は取らなかったの?
清水  迷ったけど一応とったよ。
     でも、すっごく安い金額に設定して。
     クラブイベントとかファッションショーをやりたい人とか結構いたしね。
稲田  あ、そういう人けっこういるんだね。
清水  まあ、演劇とか音楽活動やってたりしたから
     そっち方面の友だちが多かったんですね。
稲田  清水さんって基本的に友だち多いよね。
     ぼく少ないんだよなあ。
清水  それは稲田さんが友だちと思ってないだけで、
     向うは友だちだと思ってるんじゃない。
稲田  そうかなあ。
清水  ライブハウスやサークルもそうだけど、
     自分は人に会いに行くって意識が強くって。
     高校は上に大学がある高校だったんですね。
稲田  ほう。
清水  それで、付属の大学の漫画研究部に呼ばれてもいないのに
     高校生の自分が「たのもう~」って入ってくんだよ。
稲田  マジですか!
清水  「高校の漫研から来ました」っていうんだけど、
     それ以上いうことないからシーンって。
稲田  (爆笑)すげー!
清水  そうやって話したい人に会いに行ったりしてた(笑)

(ロングインタビュー 信大からネオンホール編 つづく)


四六時中帽子を被っている
清水さんは本当に四六時中帽子を被っている。
それは夏でも冬でも変わらない。
怪物くんみたいに絶対人前で帽子をとらない設定でもあるのかと思っていたら、
別に普通に帽子をとって汗をふいたりしているので更に謎が深まる。
帽子へのこだわりはロックンローラーとしてなのだろうか。いつか訊いてみたい。


タマちゃん
増沢珠美。通称タマちゃん。
長野市西ノ門町にある編集室兼喫茶店兼ギャラリー「ナノグラフィカ」の主宰であり、
長野・門前暮らしのすすめ」のリーダー的スタッフであり、
財団法人演劇人会議に所属する演劇プロデューサーであり、
役者であり、ネオンホール界隈の肝っ玉母さん。
長野市での演劇やコンサート、展覧会などのイベントの企画運営や、まちなか再生の企画にも関わっている。(清水)
SBC制作で全国放送された元気な五歳児・福太郎のお母さんでもある。
通称はタマちゃんなのだが、若い衆がタマちゃんに敬意を表する際に「タマちゃんさん 」と呼ばれることもある。


哲郎くん
現在のネオンホールの店長、若頭、リーダー。
ソフト麺的オルタナティブバンド「ジ・オーパーツ」のヴォーカル・ギター。たまに役者もこなす。(清水)
ぼくの友人(女性・大工仕事見習い24歳)は「長野市一のイケメン」と称する。
が、本人は顔がイケていることに触れられるのはあまり愉快ではないらしい。
ソロで自作を歌うこともあり。ぼくが観たのは一度だけだが、お父さんの病気を歌う歌がよかった。


夏海ちゃん
現在のネオンホール若頭その2、事務長、屋台骨。
チョコレートタウンオーケストラ」「ジ・オーパーツ」のベーシスト。(清水)
あえて毒舌キャラでいっているのかと思っていたのだが、どうも素で毒舌らしい。
が、本人は自分は毒舌だとは思っていないと見受けられる。
夏海さんのツイートやブログで時折書かれる、よい音楽を聴いたときの心のふるえや、
気持ちいい朝の空気などの記述がぼくは好きだ。
自分の心にふれたものを大小の差がなく大切に考えているように思う。


『ジャガーの眼』
唐十郎の状況劇場末期を代表する名作。
2007年度末にネオンホール十五周年の記念として、清水の演出で公演した。 約二十名が出演、観客動員数は約500人。
公演のため楽屋や搬入口の構造を変更、直前の約一ヶ月間は稽古と仕込みのために休業する...という、ネオンホールとしては大がかりな企画だった。(清水)
「裏ぶれた風が吹く忘れじの路地。人の身体から身体へと渡り歩く奇妙な眼球を宿した青年が、それを追う男装の麗人と運命的な邂逅を果たした...! 扉を背負った謎の探偵が彼らを阻止し、肉体植民地の移植医が不気味に笑う。二人が訪ねたその病院、それはいつか、寺山修司がノックした無人の病院だった...」


シンカイ金物店
過去にシンカイ金物店という店を営んでいた門前の古民家を、自分たちで改修し共同生活を始めた信大生の家を指す。
いまも「シンカイ金物店」という店名が建物に残っているので、その共同生活の場を誰もがシンカイと呼ぶようになった。そこに住む学生二人を親しい者はシンカイボーイズと呼ぶ。
彼らが作り上げた共同生活の場はなぜか人を寄せ付け、「ちょっとシンカイ行ってくる」というフレーズがけっこう飛び交う。
門前界隈の三十代男子が、大学生の住む古い家に集まってはギターを弾いたり、酒を飲んだりしている夜がある。
不思議な光景のようにも見えるし、門前ならではのよくある風景にも見える。
彼ら自身のフラットな人となりが、三十代の大人たちに陽気に愛されているのだろうなとぼくは思っている。


2011年8月11日木曜日

>駅前をめぐる冒険(シンカイボーイズ小林君)

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長野市門前の使われなくなった古い民家(旧シンカイ金物店)を借りて、
自分たちで改修し共同生活を始めた二人組の信大生。
シンカイボーイズの二人(小林君と白石君)については
長野県の技能五輪サイト『wazacan』でも書いたことがあるのだけど、
彼らの特異なところは人と触れあうことのフラットな積極性にあると思う。

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自我との葛藤の時代である二十代前半にこんなにフラットに、
かつ積極的に人と関われる若者は見たことがなかった。
少なくともぼくはそうじゃなかった。
実力以上に自分を大きく見せようとしたり、必要以上に卑小になってしまう「自我の檻」があって、
人と関わり合うことに制限をかけてしまう。
ぼくはそんな二十代だった。

でも、二人にはほとんどそんな檻を見受けられない。
自我の模索はひしひしと感じるけれど、自分を閉じ込める檻は見えない。
檻などなく、模索のために平野を見つめ、草をかきわけ、出会うもの一つ一つに視線を向けているように思える。
旅人が異国の道を歩くように。

シンカイボーイズの二人が駅前で一緒に演奏をしていることは伝え聞いていたのだけど、
そのときは楽しそうでいいなと思っていたくらいだった。
今回、小林君が思うところがあって、一人で駅前で路上ライブをするという話を知った。
そのことを決断した彼のブログがとてもよかった。

何か行動を起こすときの目的や思いは人それぞれでいいとぼくは思っている。
彼がブログで書いた、東北へ行くための資金にすることや、イベントに参加することも
ぼくにとっては「おお、がんばれよ」という事柄だ。
ぼくも宮城県に被災地の手伝いに行ったけれど、それはぼくのために行ったのであり、彼は彼の考えで行く。
小林君が大切に思っていることをブログで知り、認識し、尊重する。できれば応援する。
それ以上でも以下でもない。

ぼくが彼の行動に興味を持ち、足を運ぼうと思ったのは、
駅前での路上ライブについて彼がブログで
不安を率直に口にしていたからだ。
『不安と自信のなさにつぶされそうになります』と書き、
『これをやらなかったら僕は絶対に一生グチグチ文句を垂れて「やっとけばよかった」と嘆くんだと思います。だったらやるしかない』と書いていた。

誰もが思うことだし、誰もが経験することだ。
そして彼は「やる」と決めた。
「やらなかった」ことが多すぎるぼくは、やると決めた人を見てみたかった。
駅前で路上ライブということだけ捉えてみれば、ぼくは興味を引かなかったかもしれない。

八月十日二十二時に長野駅前に足を運ぶと小林君がD&DEPARTMENTの男子と並んで歌っていた。瀧内さんもいた。
二人が帰り、何十人もの人たちが急ぎ足で小林君の前を通り過ぎ、ときおり騒ぎ声が上がり、警察官が見回りにくる。
夜の駅前によくある風景。

小林君は二、三十曲を歌い、自作の歌も歌った。
気のいい若い二人組がモンゴル800の『あなたに』をもう一度歌ってくれとリクエストをし、
サム雷(サムライ)という北信に住む外国人といくつかセッションをした。

久しぶりの夜の街はどこかよそよそしくて、猥雑で、楽しくて、不安で、
見知らぬ人が沢山通り過ぎて、孤独で、出会いがある。
旅と一緒だ。

互いに何かを伝え合おうと、
曲の合間に言葉を交わし合う小林君とサム雷の姿は
旅と一緒だ。

小林君がこれからどんな時を駅前で、東北への旅で過ごすのかはまるで分からないけれど、
分からないこと、見たことないこと、会ったことがない人、したことないこと、
そんな未知のかたまりの指先に触れられたようでぼくも嬉しかった。

いってらっしゃい。