2011年6月11日土曜日

震災後、宮城・福島に行ったこと。


お久しぶりです。

web制作の仕事をしていながら、ずうっとブログの更新ができずにいました。いろいろ原因はあるのですが、やはり三月十一日の震災の影響がぼくにとってはとても大きいものでした。

被災された方々の日常はいまだ回復せず、東京電力の原発崩壊もその収束が見えず、政府からの勇気と光を提示するメッセージも届かず、三ヶ月前と何が改善されたのか分からない状況だと思います。

それでもぼくたちは生きているし、このろくでもない状況に茫然とする期間から、現実を受け止め、教訓を学び、前に進まなければならないのだと思うようになりました。

ぼくは四月十日から一週間、会社にお休みをいただき、宮城県石巻市にボランティアに行かせていただきました。
現地では学校の体育館に避難されている方へお湯を配ったり、津波に呑みこまれた個人住宅のヘドロ撤去や家屋整備などをやらせてもらいました。実際に現地に行ってさまざまな方とお会いし、被害を受けた現場を見ることで学ぶことも多い一週間でした。
現地であたたかく迎えてくれたボランティアスタッフの皆さん、いろんなお話をしてくださった被災地の皆さん、忙しい時期に我儘を許して一週間行かせてくれた会社の皆に本当に感謝しています。

宮城・福島から帰ってきて、何人かの方に「被災地のことを話してほしい」と促されたのですが、ぼくはなかなか話せませんでした。話してほしいと言ってくださる方たちは被災地のことを知ることで自分もできることがあるんじゃないかと思われたりと前向きな視点で言ってくださる方もいらっしゃったのにぼくはうまく話せませんでした。

ぼくは「被災地の方のためじゃなく、自分のために行った」という思いが強く、それをうまく説明できませんでした。

そんなとき、ある人に「被災地のためじゃないなんて理解できない。ちゃんと説明してほしい」と言われ、自分の言葉でどういえば伝わるのかとしばらく考え込みました。

多くの方もそうだったと思いますが、ぼくは三月十一日からの一ヶ月は震災のことしか考えられませんでした。寝ても覚めても頭の中は震災のことでいっぱいでした。呪いのように。

テレビの向こう側で津波に呑み込まれ人が亡くなっていく姿、原発がどんどん崩壊していく姿にぼくは茫然としました。波に呑み込まれていく人々はぼくであったし、絶望的に崩壊していく原発はぼくが容認してきた社会でした。三月十一日を境に、それらはぼくの中に入ってしまいました。否応なく。大きな影と共に。

なかでも大きかったのが、東京電力の原発崩壊でした。原子力発電所が日に日に崩壊していく姿を見て、福井の方の被害地域が日に日に拡大していく状況を見て、「これは、ぼくも共犯者じゃないか」と思いました。

ぼくは三十七年間生きてきて、原子力発電に対して、またその管理システムや監視体制に対して明確な態度を示さず、既成事実として認知してきました。崩壊していく原発と拡大していく被害は、ぼくが容認してきた社会システムの結果でした。

原発容認派か否定派かという話ではなく、目の前でどんどん崩壊していく東京電力の原発は、自分が内包された社会であり、その社会に対して無関心という票をぼくが投じてきた結果でした。その点において、ぼくは世界を崩壊された者であり、同時に共犯者でした。

ぼくは幸運にも直接被害を受けなかった。そして、世界はまだ続いていくらしい。
ぼくは共犯であることを認め、そこから学び、再出発しなくてはいけない。生きていくなら。
そんな気持ちで四月を過ごし、五月が通り過ぎ、六月を迎えました。
あの三月十一日から、今日で三ヶ月を迎えます。

この期間に御承諾いただいた仕事として、太陽光発電においてスペースコストやメンテナンスコストを削減でき、山岳地帯や海岸沿い、ビルや既存インフラなどでの利便性が高い両面発電が可能なシステム、採光型両面太陽電池「サンジュール」の特設webサイトを制作させていただけることになりました。(長野市の矢木コーポレーション様)
今の自分にできる精一杯のことと、多くの方の力をお借りして、良いものを作りたいと思います。

そして、今日から改めて日々の楽しいことや胸にぐっときたことなどを綴らせていただきたいと思います。
これからもどうぞよろしくお願いします。


床下のヘドロ撤去をさせていただいた宮城県石巻市ご夫婦と孫のコテツくん。ご夫婦の人柄もあって楽しい時間でした

四月十一日から一週間、宮城・福島へボランティアに行った間のツイートをまとめました。
よかったらご覧ください。

http://togetter.com/li/147174


2010年12月13日月曜日

ここ五年くらい、ずっと気になっていたことがある。


ここ五年くらい、ずっと気になっていたことがある。

生業として料理人の人生を歩んできた武士たちのことだ。

おそらく、江戸時代。
為政者が固定し、政治的に安定した時代に、
料理人という職業が武士組織内で継続化されただろうとぼくが勝手に思っているのだ。

わかりやすく言うと、「山田大名の料理は代々鈴木家が拝命してきた」みたいなことです。
もっとアイコン的に言うと、「江戸城で徳川家の食事を代々料理してきた武士」ですね。
ぼくはそんな彼らにすごく興味がある。

彼らはアイデンティティとしては武士である。
しかし、生業としては料理人である。

この二重構造。

武士の誉れを抱きつつ、料理人として腕を磨く。
時の最高権力者に一番近く、武士として一番遠い。

同じ武士組織でも法律や人事や経理のようにマクロな面で影響力を持つことはなく、
最高権力者に一番近く、武士として一番遠い。
しかし、催事において失敗することはおそらく死を意味する。

彼らはどう生き、どう腕を磨き、何に悩み、屈辱を感じ、矜持を持ち、死んでいったのか。

読みたい。
今すぐ読みたい。
過去の古文書でもいいから読みたい。

そんな気持ちでじりじりしていたら、
wikipediaでこんな一文に出会った。
平安時代貴族の社交儀礼の中で発達した大饗料理が、
公家風の料理形式として残った料理である「有職料理(ゆうそくりょうり)」という
言葉を調べていたら下記の一節があったのだ。

*   *   *   *   *   *

江戸時代初期、徳川家光が行った二条城での後水尾天皇御成行事の際、天皇家側の料理人2名(高橋家、大隅家)、徳川幕府側の料理人2名(堀田家、鈴木家)の他に京都の町方の料理人から生間(いかま)家が抜擢されて調理に携わったことから、生間家は八条宮家の料理人をその後代々拝命することになる。明治時代になり桂宮家(八条宮家の後裔)が子孫断絶により絶家したため、生間家も下野し、その料理法は京都の民間の限られた料亭に伝えられた。
現在、宮中でも皇族の結婚式などの中継で会席料理などとは大きく異なる盛りつけの日本料理が見られることから、生間家が伝えた物とは別の有職料理が伝えられている物と思われるが、外国要人などの接待にはもっぱらフランス料理が使われており、極限られた儀式でしか食べられない物のようである。

wikipediaより抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%81%B7%E6%96%99%E7%90%86

*   *   *   *   *   *

徳川家光が主催した天皇との食事会!
天皇家側の料理人2名、徳川幕府側の料理人2名、京都町方の料理人!

さらっと書かれていますが、これはドラマじゃないですか!
天皇家、徳川家それぞれの料理人はどんな覚悟でこの料理会に挑んだのか!
どんな料理を作ったのか!
献立の記録は残っていないのか!
町方の料理人は存在感をどう見せつけたのか!

すっごく知りたい。
読んでみたい。
誰か書いてくれないかな。

本屋大賞を受賞した『天地明察』 は和算と太陽暦をモチーフにした
最高に胸が熱くなる人間青春譚だったけれど、そんな一冊になりえるドラマだと思う。
冲方丁さん、書いてくれないかな。

ぼくたちは毎日を泣いたり笑ったり生きているけれど、
きっと百年前も三百年前の人たちもそう生きてきて、
もしかしたら今のぼくらよりもっと色濃く生きてきて、
そんな彼らの生きざまを見ることができるのが読書の醍醐味じゃあないかと思うんです。

それは知識として知った方が得だとか、
30分でわかる武士料理人の歴史とか違うよね。

「ただ読みたい」それだけ。

でも、読書なんて趣味なんだから、本来そうだと思うんです。
なぜだかこの国では「本を読みなさい」「本を読むと役にたつ」なんて声が
為政者やメディアから出てくるけど、そんなことは一側面にすぎないのに。

鉄道好きが電車のことを知りたくてたまらないように、
ぼくも興味ある本を読みたくてしょうがない。
読書も鉄道もプラモデルも編み物も映画も音楽も落語も
あらゆる趣味は「偏愛」という一点において等しいと思う。

ぼくは心底そう思っているんです。

国の国民読書年や学校の読書感想文なんていう
偏愛のかけらも感じない施策なんて吹っ飛んじゃえって思うくらい。

wikipediaで出会った一文に血沸き肉躍った一日でした。