2012年6月25日月曜日
声を上げること、意見を具現化すること。
六月に『再稼働反対大行進in長野』に参加させていただいて、デモに参加することは自分の意見を実体化する行為なんだと体感できました。
「原発再稼働反対」という目に見えない一人ひとりの意思に、「デモ」という可視化した実体をつける行為なんだと。
「いじめ」に参加していなくても、見ないふりや無関心さは決して抑制力にならない。のみならず、無関心さは「いじめ」という構造の成立要素として参加している。そのことをぼくは学生生活でとてもリアルに体感しているので、マブソンさんが引用されたアインシュタインの言葉は胸にしみました。そしてそれは今の原発問題に似た構造だと思います。
福島を奪われた方々に対してぼくたちは多かれ少なかれ共犯者になっている。それを去年の東日本大震災でぼくは痛感したばかりです。その気持ちを書いた当時のブログと、今は気持ちは何も変わらない。それなのにまた無関心層として構造に取り込まれたら、僕はあの震災で何も学んでいないことになります。
声を上げること、意見を具現化することを「意味がない」と否定するよりも、そもそも僕は「声を上げること、意見を具現化すること」が出来る大人になりたいと思います。そうじゃなかったら「大人になる意味なんて何もないじゃないか」と学生時代の自分に問われてしまう。あのときの自分は何も出来なかったけれど。
「大人になったら(頑張って)勇気が出せるようになるんだぞ」と自分の子どもや、十代の自分に言えるようにぼくはなりたい。七月二十九日の脱原発国会大包囲に参加します。
2012年6月11日月曜日
デモに参加してみて思ったこと。
六月十日に長野市で行われた原発再稼働阻止のデモに家族で参加しました。南千歳公園から周辺を一時間ほどかけて歩く五十人ほどの小規模なデモ。
今回は原子力発電についてではなく、生まれて初めてデモに参加してみて「ふーむ、こうなっているのか」と知ることが幾つかあったのでそちらを覚書として書いてみます。
一)参加はかなり自由で、飛び込みも歓迎だった
南千歳公園に集まりさえすれば後は皆で歩くだけ。署名や人数確認もなし。デモ行進しているときも「賛同する人がいたら一緒に歩こう」という姿勢でした。いつかどこかでデモ行進をしていて、それが賛同できる内容だったら今度はかなり気楽に飛び込みできるだろうなーと実感。
二)警察はかなりスマートに道路整理をする
正規のデモはきちんと届け出するということを知識としては知っていましたが、デモの行進中、警察がこんなに懇切丁寧に対応するのだとは知りませんでした。
車道を歩いている間はずっと、車の進行やデモ参加者のはみ出しなどを誘導します。【デモは国民の権利である】【権利を施行する間、官がサポートするのは当然である】という考えは理解できますが、そうはいっても人間。「いやあ、ありがとう」という気持ちに。なにか事故があったら彼らも責任を問われるので業務の一環として当然なのでしょうが。国の姿勢について反旗を翻しつつ、一方で国のシステムに懇切丁寧にサポートしてもらうという両面性が面白かったです。もちろん、そんなデモばかりではないだろうけども。
三)子どもへの影響は大きい
今回はたまたま家族総出(ぼく妻子ども三人)で参加したのですが、まあ、最初は子どもたちは怯えていました。「な、なんだこの場は…。この大人たちは…」という感じ。それはそうだ。六歳の息子なんて怯えて涙ぐみ始めたので、最初はおんぶしながらの行進。八歳の娘は「帰りたいよう」と控えめに訴えてきましたが、父としてスマートに拒否。
それでもまあ、何でも馴染んでくるもので、怯えていた息子もだんだん慣れてきて、「原発反対!」のシュプレヒコールをぼくの背中で呟きはじめたなーと思っていたら、そのうち調子にのって大きな声で「げんぱつはくさい!キャハハ」と子どもじみたギャグを嬉しそうに言ってました。
八歳の娘もコールまではいきませんでしたが、手持無沙汰だとつらく、何かの役割が欲しくなってきたのでしょう。二歳の娘を母親から奪って、抱っこして行進するのが心の安寧だったようです。行進では楽器を鳴らしている幼児もいて、そうした参加感を得れる道具があると子どもも楽しくて良いかも。娘は妹を抱っこして行進してると、いろんな人が写真を撮ってくれるのが嬉しかったらしく、行進後に「いっぱい写真とられた!」と自慢げでした。気持ちはわかる。
娘は帰宅後、宿題の日記を書かなきゃーとガツガツ書き始めたので見せてもらうと『今日はデモ行進でみんなと歩きました。声も出さなくてはいけなくてちょっと恥ずかしかったです。「原発はんたい、いのちをかえせ」とみんなで言いました。ふるさとの歌もみんなで歌いました』といった内容。担任の先生、前知識なく読んでびっくりするだろうな。まあ、それも面白くてよい。ぼくは個人的嗜好としてシュプレヒコールは苦手なのですが(皆そろって同じことをするのが苦手)、あの短時間で娘にこれだけ浸透するのだから、なるほど浸透効果は高いのだと納得。
子どもがデモに参加することについて思ったのは「是非はともあれ、影響はストレートに出るんだな」という実感でした。その良し悪しはきっとそれぞれが決めればいいことでしょう。
また、なぜか日本ではポリティカルな場面に子どもがいる風景に違和感がありますが、それは今の日本ではポリティカルなことが日常性を持っていないからなんだろうなと何となく実感。ぼくもデモに参加することは非日常でした。それで家に帰って「げんぱつ・はくさい!」と節をつけながら口ずさんでいる息子と牛乳を飲むのはとても日常的で何だか面白かった。
四)まとめ
今回、デモに参加しようと思ったきっかけは誰かがリツイートした誰かの引用文でした。うろ覚えですがこんな内容。
「国が本当に嫌がるのは、とにかく群衆がどこかに集まることだ」
これが本当かどうかは知りません。でもなんだか説得力があったので、嫌がるならやってみようと。どれほど嫌がったか分かりませんが、今回のデモ参加で「社会に対して手を挙げる方法」を試してみたんだなーという実感は得ました。学校に行って初めてそのクラスで手を挙げたときのように。これからも手を挙げるときは挙げようと思います。学校でもそう習ったからね。
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追記)
ちなみに僕の原子力発電についての態度は以下のようなものです。
一)自然エネルギーに乏しい日本が頼ろうとしてきた(今でも頼りたい)側面は理解できる
二)しかし、この五十年で原子力発電を維持・開発する環境が既得権益化しすぎる一方、国民の選択の場が不在化し、「原子力発電を使い続けようとする」システムのみが拡大し、歪みすぎたように思える
三)使用済燃料の最終処理場を日本国内に置けるのか(置いてよいのか)大いに疑問がある(東日本大震災以来、日本の地理特性、責任者・管理者不在の政府姿勢などを経てその気持ちは更に強まった)
つまるところ個人姿勢として、原子力発電の技術的な有効性で語るのではなく(そもそもぼくには分からない)、「既得権益化によって、原子力発電を使い続けようとするシステムのみが拡大した日本行政と企業では、災害があったときに被害が甚大である原子力発電を正しく運営できない」と思っています。屋根からぶら下がって窓ガラスを拭くときに、信用できない人に大切な命綱は預けるなってことですね。
また、既得権益を持っている人たちに「それは捨てるように」と言ったって捨てないと思うんです。ぼくだって捨てないよ。もったいない。
既得権益化は企業としてはそのベクトルを当然持つだろうと思います。利益の追求が企業の本質的な有り様だから。原子力発電=既得権益の「システムを改善しよう!」というよりも、今まで一方的に独り勝ちしていた彼らがここで大きなミスをして、選択肢というとても貴重なカードがテーブルに戻ってきたのだから(今まではそのカードすらも存在しないように無在化されていたと思える)、この機を逃さずちゃんと態度を表明しようと思っています。
薬物中毒者が自分からクスリを止めるのはとっても難しい。一番効果的なのは「もうクスリやっちゃだめ!」と患者の前からクスリを取り上げることと、アフターフォローなはず。だから、患者自身の是正を期待するのではなく、ぼくたちのような外部の人間が「原子力発電はもうダメ!」と選択肢を示すことが、いま必要な対応なのだろうと思っています。それで万が一、新しいエネルギー政策が決まったとしても、そのシステムはきっとまた既得権益の集団になるんだと思いますが、それはまた別の話。ぼく個人としては「今までうやむやの中で使い続けてきた原子力発電を、本当にこれからも自分たちは選択するのか」という選択肢を国民レベルで決めるタイミングなのだろうと東日本大震災以来の動きを理解しています。
デモに参加した子どもたちの三人三様。終了後にドリンク一気飲みする息子/帰宅後にガツガツ日記を書く長女/終了と同時に爆睡する末っ子
2012年6月7日木曜日
長野と松本について。
松本市内でお店をやっている方と電話で話し込む。
彼はぼくのクライアントでもあり、彼の関わる組織のwebサイトも制作させていただいた。
同世代でもあって話も合うし、会うと楽しい。
彼の目下の悩みは
「松本の商店街をもっと人が集まる、熱のある形にどうしたら出来るのだろうか」ということだ。
それはもっと売上を上げるとか、集客をするといった短路的なことではなく、
「あそこに行ったら何か面白いことをやっているよね」という空気感を
どうやったら作り上げられ、定着させられるかということ。
ふーむ。
webサイトを使って各店舗がブログやtwitter、
facebookなどの情報発信することも店舗ごとに温度差があって、
ひとつの集団としての「熱」や「楽しさ」を積み重ねていくのは難しい状況とのこと。
ふーむ。
若い世代や外部の人が店舗を構え、既存店の方々と交流が生まれることで
新しい流れや熱が生まれるのじゃないかという視点も、
街の整備が進んだ松本市内はそれによってテナントの賃料が高く、
なかなか気軽に若い人が出店できる状況でもないとのこと。
ふーむ。
そういえばどこかで
「街の活性化だといって古い建物を一掃すると、それによって賃料が上がり、
若い世代の出店が難しくなって、街の世代交代が膠着化するリスクがある」
というようなことを読んだ記憶がある。
長野市だってそういった一面はあるだろうが、
善光寺があることで、周辺の整備化が進まなかった部分もあるのかもしれない。
それによって古い家屋が残り、
若い世代が手の出せる賃料で出店できるという流れが可能になったのかもしれない。
チクーや1166バックパッカーズやロジェやBook&Cafeひふみよのように。
そんな話を松本の友人と話している中で、
長野と松本のやり取りをできるような場所(webサイト)があるといいよねという話になった。
そこで生まれるやり取りは店舗を構えている人同士かもしれないし、
友人と日曜日に遊びにいく場所を探している若者かもしれない。
松本で店を出したいなーと思っている長野の人かもしれないし、
その逆の人かもしれない。
実際にtwitter上で長野と松本のぼくの友人同士が
見知らぬままに会話を交わし、
「今度、女子会しましょうねー」などと盛り上がっている。
女子会だけどぼくもぜひ行きたい。
ぼくがこの一年で門前の動きから学んだことといったら、
「人が集まるのはそこに人がいるからだ」ということだ。
そこに会いたい人がいるから人が動き、
会いたい人がいる場所が店舗であり、
会いたい人がいる場所で新しい出会いと会える。
松本と長野を結ぶ何かを考えた時に
仕事柄、webサイトやfacebookなどの活用はもちろん浮かぶけれど、
まずは松本の友人に長野に来てもらって、
こちらの店舗や友人に会ってもらって、ご飯たべたり、お酒飲んだりして、
彼自身が長野の友人をつくることで何かが生まれるんじゃないかなーと思っている。
六月後半に長野に来てくれる予定になりましたので
皆さん、よかったら一緒に遊びましょう。
長野と松本で友人が増えて、
「先月はこっちで遊んだから、今度は遊びに行くねー」という会話が
もっと増えたら楽しいだろうな。
そしてぼくたちはfacebookやtwitterという道具で
そんなことを気軽に楽しく実現できる生活にいるのだと思う。
2012年2月28日火曜日
歴史って本当に面白い!「飯山の戊辰戦争」
お手伝いをお願いしている編集者さんが飯山の歴史本で下調べしてくれたところ、
明治維新期に上越から入ってきた幕府脱走軍たちの取り扱いを巡って
飯山藩が二転三転の大混乱に陥った事件があったという文献を教えてくれました。
おお!幕末好きには堪らないエピソード。
パンフレットには使えないけど、俄然興味あります!
その本は『語り部が語る ふるさと 飯山』(佐藤政夫・弓削春穏/ほおずき書籍)。
さっそく熟読。
幕末期の飯山藩事件は大政奉還に反発する脱走幕府軍の局所的戦闘のお話でした。
その名も「飯山の戊辰戦争」!
いやー、面白かった!!
当時、幕府の歩兵指南役だった青年将校古谷作左衛門が隊長を務めるこの脱走軍(後に衝鋒隊と命名)は
慶応四年三月はじめに江戸を出て、同月二十日すぎには会津若松に入城。
諸藩きっての佐幕藩主だった松平容保に激励を受けた衝鋒隊は意気大いに上がり、
越後の諸藩を説得し、味方に引き入れながら(半ば迷惑がられ、半ば歓迎されながら)高田城下まで進軍。
このころ衝鋒隊の勢力およそ五百人。
浪士五百人が越後から信州へ向かってやってくるという噂が広まるにつれて、信州の諸藩は気が気でない。
なかでも飯山藩は富倉峠一つへだてた新井宿まで先鋒隊がやってきたとなると、これはもう一大事。
ここから、飯山藩の大混乱が始まるのです。
五百人におよぶ脱走幕府軍に対し、たかが二万石の小藩飯山は足軽まで入れてもせいぜい二百人。
何としても激突は避けたい。
一戦に及んだら城下町が火の海になるのは見えている。
脱走幕府軍を素通りさせて、事無くすませたい。
そんな思惑で衝鋒隊の宿舎を求めて、飯山藩は本町の家々四十数件
(ほていや仁太夫・よしのや庄兵衛宅など)を割り当てたり、
真宗寺を本陣に空けさせるなど涙ぐましい努力をするのですが、
なんと衝鋒隊は素通りするどころか、
飯山を本拠地につい先ごろまで幕府代官所のあった中野を襲撃しようと居座ってしまいました。
その上、それを聞きつけた信州随一の雄藩・松代藩は浪士隊を殲滅させようとぞくぞく木島周辺に集結。
「お前ら不逞の徒を泊めて何をやっておるか!よもや官軍に弓を引くつもりか!」と激怒。
それはそうだ。
さあ、困った飯山藩!
何とかして浪士隊を城下から立ち退かせねば、もはやこちらも賊軍とされるいきさつに。
どうするどうする!
...とまあ、書くと切りがないので導入のここまでにしておきますが、いやー、本当に面白い!
幕末好きのぼくだけど、飯山は幕末の騒動なんて関係なかったんだろうなあと勝手に思っていました。
それが、こんなに人間くさい事件があったなんて。
松代藩も佐久間象山くらいにしか思っていなかったのですが、
当時の飯山藩の慌てようを垣間見るに、雄藩としての松代藩の存在がぐぐっと大きく見えてきたり。
歴史は一つの視点でぐっとダイナミズムを得ますね。
この瞬間が本当に面白い。
最後に、ぼくの実家は飯山市内の愛宕町で内山和紙店を営んでおりますが、
それは祖父の代からで、しかも祖父は仏壇屋をやっていたんですね。
そして仏壇屋の前の江戸時代には米問屋を営んでいて、まあまあ裕福だったと。
それは知っていたんだけど、「なんで米屋をやめたのかなー」と以前から不思議に思っていたんです。
それで今回の「飯山の戊辰戦争」を読むと、
最後に敗走した浪士隊は市中に火を放ち、飯山城下はほぼ火の海に包まれるのですが、なんとぼくの実家も焼けていた!
(この本に当時の焼場書略図が掲載。飯山城から愛宕町までほぼ全域の大火でした。※当ページ終わりにPDFがあります)
ああ、だから、米問屋を閉めて、当時から盛んだった仏壇作りに「おれも仲間に入れてくれ」と始めたんだ...。
ぼくが三十年漠然と「なんでかなー」と思っていたことが、一冊の本で新しい視点を得ることができました。
詳細は実家に帰って父親に尋ねなければなりませんが、
自分の人生と、日本の歴史がリンクする面白さを味わえた瞬間でした。
ああ、歴史って本当に面白い!!
『語り部が語る ふるさと 飯山』
佐藤政夫・弓削春穏/ほおずき書籍
飯山の戊辰戦争_「語り部の語る ふるさと 飯山」より.pdf
ほおずき書籍さんの御厚意により、『語り部が語る ふるさと 飯山』での
「飯山の戊辰戦争」章のPDF掲載ご許可をいただきました。
ほおずき書籍さん、ご丁寧に対応いただきましてありがとうございます。
すっごく面白いので、幕末好きの北信地区の方々、よかったら読んでみてください。
2012年2月1日水曜日
『Book&Talk ひふみよ vol.02』で思ったこと。
一月二十八日にBook&Cafeひふみよで開催された『Book&Talk ひふみよ vol.02』に行った。
雑誌『spectator』編集長・青野利光さんと
『Get Back,SUB!』の著者でライター・編集者の北沢夏音さんのトークイベント。
音楽や本や雑誌を深く愛する北沢夏音さんが口にされる
楽曲やアーティストはぼくには半分も分からなかったけど、
予定を大きくオーバーした三時間にとても満足した。
楽しいというよりも、静かな音楽会に参加したような不思議な気分だった。
まるで夜の森に皆で車座になって、静かな音楽をずっと聴いていたように。
友人もツイートしていたけれど、
青野さんと北沢さんのトークは「長野」とか「地域性」とかいう括りを超えた話だった。
青野さんは東京から長野に『spectator』の編集部ともども越されてきて、
そういう点では長野も話題に上がったのだけど、
全体を流れるトーンは雑誌制作や七十年代のリトルマガジンに主軸を置いて、
サブカルチャーの意義を語るという内容だった。
Book&Cafeひふみよの二階で、
小さな音色に耳を傾けるようにして、
ぼくは青野さんと北沢さんの話を聞いた。
『SUB』や『WonderLand』や『宝島』や
『Rolling Stone』やニュー・ジャーナリズムの話を聞いた。
北沢さんは話のなかで比喩として楽曲名をよく出した。
ぼくが知っている曲はほとんどなかったけど、
さらりと北沢さんの口から出る楽曲は古い本のように手触りが良さそうだった。
なんだか、とても心地よかった。
ぼくは思うんだけど、サブカルチャーとかアンダーグラウンドとか、
ポップミュージックって日常に無くてもいいものなんだろう。
でも、日々に生きるぼくらの視点を一つ上に上げてくれ、
日々に生きるぼくらの重力性を断ち切ってくれるものは
サブカルチャーとかアンダーグラウンドとか、
ポップミュージックなんだろう。
きっと。間違いなく。
そして、油断した日常性を
非日常性から覆そうとするのが
サブカルチャーとかアンダーグラウンドとか、
ポップミュージックなんだろう。
きっと。間違いなく。 たぶん。
『Book&Talkひふみよ vol.02』のあの時間は
ぼくにとって非日常だった。
非日常性をヒリヒリと愛しく思っている人たちと
同じ時間を共有できて本当に嬉しかった。

2012年1月19日木曜日
誰かから何かを受け取り、また誰かに渡していくこと。
ご近所のおばあさんが亡くなった。九十歳近かったと思う。
ぼくは彼女の顔一面に深く刻まれたシワと、
笑うと目がなくなるくらいの笑顔が好きで、
遠くから見かけるとスススと寄っていって挨拶をした。
機会があってお家に上がったときに、彼女が若かりし頃のことを聞いた。
日常的に話慣れていないみたいだったけど、
「聞かせて聞かせて」とねだると咄咄と話してくれた。
若かりし頃の家の間取りのことを尋ねると、
土間があって農耕牛がいて井戸があって...と沢山教えてくれた。
高齢の方とお話するときには質問を具体的にするといいと
いうことを教えてくれたのも彼女だった。
住んでいた家のことを媒介にすると、
当時の記憶が湧き出てくるということも教えてくれた。
彼女の口から語られる当時の暮らしからは
「家族総出で生きる」という姿勢がとても伝わってきた。
押し車をお共にいつも散歩されていて、
お会いする度に子どもたちを見て「可愛いなー可愛いなー」と言ってくれた。
そのときの彼女は仏様を拝んでいるようだな、と思った。
実際、そんな気分だったのかもしれない。
休日の散歩のわずかな時間だけだったけれど、
八歳、六歳、二歳になるぼくの子どもたち全員と
赤ん坊の頃からこの数年間でずっと会ってくれたわけだ。
会ってくれて良かったとも思うし、
ほんの少しでも彼女に何かしらを渡せたのならいいと思う。
それくらい、彼女の「可愛いなー可愛いなー」という言葉には、
美しいものを見る何かしらが宿っていた。
ぼくたちが誰かに何かを渡せるものは本当に少ないかもしれないけれど、
ぼくたちはそうやって誰かから何かを受け取り、また誰かに渡していく。
