2011年7月31日日曜日

清水隆史ロングインタビュー 信大からネオンホール編(三/五)

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※ 前回までのあらすじ
やりたい放題やっていた信大松本キャンパスから、人も少なく勉強も忙しい長野キャンパスに移ってきた清水さん。
思うように演劇や音楽をやる場がないので、自分で作ろうと思う。

稲田  長野にないから自分で作ろうってなったんだ。
清水  拠点が松本にあるから、最初は松本に通ってたんです。
     でも、当時の演劇仲間に実践派で一目置いている男がいて、
     「清水くんは松本に来てがんばっているのもいいんだけどさ、
     自分のいる場所で出来ないやつはどこに行っても何もできないよ」って言われたんですよ。

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稲田  うん。
清水  ああ、それはそうだと思って。
     じゃあ、長野をもっと煮詰めようと。
稲田  その人はずっと松本キャンパスだったんですか?
清水  うーん、宗教にいっちゃったから卒業しなかったんだよね。
稲田  ああ。自分でけっこう考えるタイプの人だったんだ。
清水  そうだね。
稲田  それで自分で場所を作ろうと思ったときに、
     いわゆる普通の貸家みたいのは考えなかったの?
     不動産屋で借り物件を見たりさ。
清水  うーん。
     松本での学祭やそれ以外のタイミングでも、
     ビニールハウスを建ててライブハウスやったり、
     空き地でアートイベントなんかをしてたんですよ。
     「スーパーネオン」的なこともそこでしてたり。
     だから、賃貸で物件を借りて何かやろうとは思わなかった。
稲田  セルフビルド的な発想はもうそのときからあったんだ。
清水  うん。
     形にこだわらず、ステージを持つということに興味はあった。
稲田  ネオンホールを作る前に、どこかを借りて場を作るってことは
     まだしたことなかったですよね?
清水  ないですね。
     それで長野で自分たちの場所を作ろうって思ったときに、
     そこに住んじゃえば早いかなと思った。
稲田  住むことと、舞台を作ることを一緒にやろうって?
清水  まあ、お金ないし。ステージ運営して儲ける気なんかゼロだったから。
     住居と兼用じゃなくちゃできないって思った。
稲田  ああ、なるほど。
清水  一人四万出して、三人で十二万...みたいにすれば、何とかなるかなと。
稲田  あ、共同でやろうっていう発想はそもそもあったんだ。
     そのときに巻き込んだ人たちってどんな人なの。
清水  当時、一緒にバンドやってた人で。
     最初にやりたいと思い描いていたのは
     共同作業所とか、共同アトリエとか、そういうイメージだった。
稲田  ふーん。
清水  共同で物件を借りれば、松本でビニールハウス建ててやってたことが
     長野でできちゃうなーって、簡単に考えてた。
     店を始めるとかそういうことは考えてなかったなー。
稲田  そうなんだ。
清水  ライブやら演劇は松本でやりまくってたから、
     長野市で実験的な場所を持って、
     松本でしてた活動をそこに乗っければいいんだって。
     そんなふうに、暮らしてる街で活動すると何か見えてくるかなーって。
稲田  暮らすことって視点はなんで入ってくるんですか。
清水  それ以外にやりようがなかったから...大学生だったし。
     お金ないし。
稲田  ああ。
清水  唯一の実現の手段として、住んで作るしかなかった。
稲田  バンドメンバーはすぐ納得してくれたの?
清水  説得して。
     一人は一緒のタイミングで住んで、一人は少し遅れて参加した。
稲田  ネオンホールの建物を見つけてきたのは清水さん?
清水  そう。
稲田  もともとライブハウスだったんだよね。
清水  うん。でもそれは全然知らなくて。
     当時は空家になって六、七年たってた。
稲田  前の店は「ブッダ」でしたっけ。
清水  うん。
     そこが「ブッダ」っていう有名なライブハウスだったことも知らなかった。
     ブッダの後に「DUB」っていう店になってたらしくて、
     ドアにダブって書いてあったのは覚えてるなあ。
稲田  そっか。
     それでネオンホールになる建物を自分で見つけて、
     借りたいなって思って、どこに声をかけるの?
清水  近所の人に聞けばいいじゃないですか。
稲田  いや、やったことがないから分からないよ。
清水  本気でやろうと思ったら、誰でもいいから手あたり次第に聞くんです。
稲田  うーん。
清水  当時、ネオンホールの下が飲み屋で
     二階は空家っていう状態だったんですよ。
     それで飲み屋の人に不動産屋を教えてもらった。
稲田  持ち主は長野の方ですか?
清水  うん。
稲田  不動屋さんに行く前に中を見たことはあったの?
清水  まあ、当時はやたらと空家とか廃屋が好きで、
     松本に住んでた頃も廃屋を見つけたらバンバン中に入ってたんですよ。
     山にあるホテルとか、郊外の民家の廃屋とか。
稲田  それはさ、人に説明できる高尚な理念とかがあって?
清水  ううん全然。なんとなく。
     なんか...アングラな行為として。
稲田  (笑)
清水  一人で勝手にやってました。
稲田  じゃあ、ネオンホールも借りるかどうかって前から入ってたの?
清水  うん。何度も勝手に入って、夜とか友達と二人で缶コーヒー飲みながら、
     廃屋状態の部屋の中でボソボソと語り合ったりね。
稲田  楽しそうだなぁ。
     鍵かかってないの?
清水  なんか、たまたまちゃんとかかってなかったんですよ。
稲田  (苦笑)
清水  南京錠の止め穴が大きくて、簡単にするっと抜けたんだよね。
稲田  ははは。
     なんであの建物がいいと思ったんですか?
清水  だって天井抜けてるし、雰囲気も気に入ったし。
     広さもちょうどいい。
稲田  あ、もともと抜けてたんだ。
清水  内装はだいたいそのままですよ。
     特に最初は掃除しただけです。
稲田  へえー。不動産屋とはスムーズに話が進んだんですか?
清水  スムーズって感じじゃないな。
     大学の研究室の先生に怪しいやつじゃないよって一筆書いてもらったりして。
稲田  不動産屋さんは住む前提でOKくれたの?
清水  うん。
稲田  そうなんだ(ちょっとびっくり)。
清水  二階への階段上がってすぐ右側の部屋が自分の部屋で、
     今は控室になっている奥の部屋がほかの二人の部屋だった。
稲田  それは大学何年生からになるのかな?
清水  三年の後半くらいから長野で場所を作ろうって考え始めて、
     そんな頃に信大の伊那キャンパスに遊びに行ったんですよ。
稲田  うん。
清水  一年生のときに現代美術の活動を一緒にしていた風変りな女の子がいて、
     そいつが巨大なオブジェを作ってたんですよ。
     伊那のキャンパスにあった廃屋の中で。
稲田  (やたら廃屋が出てくるな)
     どんなオブジェだったんですか?
清水  いやー。
     穴を掘って、コンクリ流して、そこにいっぱい鉄とか刺して、
     固まったら引っこ抜いて、土を落としたやつとか。
稲田  ......。
清水  テレビをバーナーで炙ってみて、ガラクタと合体させた...みたいな?感じ。
     産業廃棄物で作る有機的な作品というか。
稲田  へええ。
     その人は農学部だったんですか?
清水  そう。
     ちょっと何ていうか、サイバーパンクな作品を作る人だったんですね。
稲田  その作品を見て、清水さんとしては心が動いたってこと?
清水  うん。かなり感動した。
     これは人に見せなきゃいけないって。
     で、自分がプロデュースするって言った。
     長野で展覧会する決心をして。
     展示するならやっぱり廃屋にしようと思ったんですよ。
稲田  そこからネオンホールが始まるんだ。
清水  当時はまだバブルの余韻があったから家賃も高くて。
     イベント用に一ヶ月だけなんて貸してくれるかわからなかったけど、
     もう闇雲に頼んでみようって思ってたんです。
     そしてさらに色々考えているうちに、一ヶ月だけとは言わず、
     長く借りて住んだら面白いかもって思い始めた。
稲田  ほう。
清水  そこに住むって話にして、最初の一ヶ月を展示に使おうって。
     途中から大家との交渉を切り替えました。
稲田  最初の一ヶ月から皆で住んだの?
清水  ううん。最初はそのオブジェの子が住んだ。
     住みながら、ネオンホールで作品制作してもらった。
稲田  へええ。
清水  それが彼女と作品に合ってると思ったから。
     半月で作って、半月で見せるってコンセプトで。
稲田  うん。
清水  だから最初は室内のクリーンナップだけして、
     電気と水道をつけて、はいどうぞって。
稲田  そうなんだ!
清水  彼女は元押し入れのスペースとかで寝泊まりしながら作って、
     自分たちは学校が終わったら手伝ったりとかしてた。
     美術研究会の中にも教育学部組がいっぱいいたから、
     そういう仲間で手伝ってた。
稲田  その子はその間、学校はどうしてたんですか?
清水  学校なんてあってないようなもんだから。
稲田  (爆笑)
清水  どうでもよかったんですね(笑)
     あ、九月だったから夏休みだったかもしれない。
     ぼくたちは教育実習があったけど。
稲田  清水さんも行ったんだ。
清水  うん。小学校と中学の両方行きましたよ。
稲田  楽しかった?
清水  すっごく良かった。

(ロングインタビュー 信大からネオンホール編 つづく)


ビニールハウス
信州大学人文学部にあった謎のサークル「モンゴル相撲部」のメンバーが大学祭の自主企画として始めた企画。
学内に農業用のビニールハウスを建て、ライブステージ + カフェバーとして営業した。
サークルや学生/社会人の垣根を越えたライブオムニバス企画として、数年間継続した。(清水)

スーパーネオン
毎年夏・冬と二回開催されるネオンホールのオムニバスイベント。
出演者は30組以上、90年代半ばから休みなく継続している。(清水)
七月十六、十七日に開催された今年のスーパーネオンはとにかく熱かったらしい。二日間、ぼくのツイッターのタイムラインがスーパーネオンに行った人の熱いツイートでいっぱいだった。ぼくはどうしても行けなかったのだが、当日の清水さんのツイートにはウズウズさせられた。くやしい。以下は清水さんのツイート。
『悪いことは言いません。今夜もし「スーパーネオン」に行くなら、必ず絶対に無理してでも17時半開始のアタマから観た方がいいです。恐るべき十代、「ベガ星人」を見逃すことなかれ。行く予定じゃなかった人も、考え直して観に行った方がいいです』

ブッダ
1970年代後半~80年代半ばまで、長野市のライブハウスの草分けとして存在したお店。
フリクション、アナーキー、スターリンなど、沢山の伝説的なバンドがツアーで訪れた。(清水)

空家が好き
この行動は『長野・門前暮らしのすすめ』の「門前暮らし相談所・空き家巡り」に繋がっている。
この活動が契機になって門前界隈で店を開いたり、住居を構えた人も多い。
しかし、長野市とチームになって立派な活動となっているこの企画が、「アングラな行為として」から始まっていようとは。

ネオンホール最初の展示
タイトルは『スエヨシカナコインスタレーション「有機変造体標本」』。
約二週間開催し、作品空間では演劇実験室カフェシアターや吉岡潤らがパフォーマンスした。(清水)

2011年7月13日水曜日

清水隆史ロングインタビュー 信大からネオンホール編(二/五)

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※前回までのあらすじ。
友人の兄に聴かされた信大生のフォークソングに惹かれ、信大教育学部を受験した清水さんが松本にやってきた。

稲田  それで信大に入ったと。
     どうでしたか? 実際に松本に行ってみて。
清水  よかったですよ。
     歌の中の世界に入ったとまでは思わなかったけれど、
     歌をキッカケに妄想したから信州に来たという気持ちは今でも残っていて。
     今もあの頃に描いた松本像というか信州像が頭の中にあって、
     冬なんかにフッとそこにいる自分に気付いて感動したりしますね。

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稲田  へえー(生粋の信州飯山生まれなのでその感慨は新鮮)。
     そういえば、高校時代のバンドではどんな音楽をやったんですか。
     フォークバンドだったんですか?
清水  ううん。好みというより出来ることをやったから。
     ボーカルの奴がやりたがったからBOØWYとかやった。
稲田  うわー、時代ですね。
清水  なんでもいいからステージの上に立って弾ければいいみたいな。
     あ! でも、一曲だけ自分は信大生が作った歌をやった。
稲田  マジですか! (爆笑)
清水  自分が歌ったよ。ベースからギターにかえて。
稲田  (笑) 絶対反応ないでしょう。
清水  いやー...ウケたよ、多分。
     そのときのバンドは学祭で一回しかやらなかったんだけど、結構モテた気がする。
稲田  いいなー。
     それで信大では軽音楽部に入るんですね?
清水  そう。今でもありますよ。同じ場所にボックスもあって。
     今では仕事の撮影で行ったりしてますよ。JBNさんのお仕事とかで。
稲田  お世話になっております(笑)。
清水  あ、違った...。あれは代理店さんの仕事だった。
稲田  ははは。
清水  それで、美術研究会ってのにも入って。
     自分はそっちがメインだったんです。一応部長だった。
稲田  (高校のときと同じような動きしているなぁ)
     美術研究会ってなにやるんですか?
清水  絵を描くんです。
稲田  ああ。好きなんですねー。
清水  でも、そのときの美研って変な人ばっかりで。
     絵を描かない人がいっぱい入って。先輩とかは怒ってたけれど。
     インスタレーションするとか、パフォーマンスするとか。
     演劇やる人とかもわんさか入ってきて。カオスみたいになってた。
     自分も美研のなかでバンド組んだりした。
稲田  ふーん。
     そういえば、大学では演劇にどう関わっていたんですか?
清水  学外と関わりのある学内の劇団、みたいなところに入ってました。
     演劇をやっている人をボーカルにしたバンドをやってみたいって
     高校の終わりくらいから思ってたんですよ。
稲田  ほほう。
清水  不条理芝居をやっているようなちょとおかしいような人をボーカルにして
     パフォーマンスをやるようなバンドをしてみたかったんですよ。
稲田  ぼくはミドリってバンドが好きだったんですけど、あんな感じ?
清水  もっとおどろおどろしい感じというか...。
     「お病気シアター・リュウマチ」っていう名前の劇団に入って、
     そこの人を誘ってバンドを作りましたよ。ヒエラルキーってバンド。
     そこの若手では看板的だった女優の子をくどいて。
稲田  その子も信大?
清水  信大。
稲田  出来はどうだったんですか?
清水  けっこう面白かった。多分、まわりの人々からは評価されて、
     ローカルのテレビに出たりしましたよ。
     コンテストで入賞したりとか。
稲田  へえー。
清水  演奏は普通なんだけど。やってることが変わってたんですね。
     ステージで磔(はりつけ)にして動けないやつに歌わせるとか。
     全員で包帯巻いてステージに立つとか。
     ボーカルの奴は筋金入りで、今でも松本の「経帷子(きょうかたびら)」という劇団でやってますよ。
稲田  今でも?
清水  うん。五月のあがたの森のクラフトフェアでは白塗りして舞踏してました。
     舞沢智子っていって、(長野のアングラ劇団である)カフェシアターの舞台にも出てたりしてます。
     彼女が寺山修二とか唐十郎とか詳しくて、
     バンドに誘ったら逆に彼女から色々と仕込まれた感じ。
稲田  あ、そうなんだ!
清水  「清水くん、寺山とか知らないんじゃだめだよ」って感じで。
     そういうのをやってる劇団を一緒に観にいったりして、「ああ、最高だね」ってやってた。
稲田  へえ。
清水  で、バンドもこういうのやろうよって。
     曲中にドラマが始まったり、8ミリフィルムの映像と合わせて演奏したりとか。
     ステージにむやみに石膏像を置いたりとか。
     そういう演劇的なことをいっぱいやってた。
稲田  それ大学何年生くらいですか?
清水  一、二年くらいかな。
稲田  突っ走りますねー!
清水  そう...かなあ?
稲田  それって、中学や高校時代に
     「おれ、こういうことやりたいけど周りに合う奴いないし、チクショー」みたいな?
清水  うん。大爆発して。
稲田  (笑)
清水  したい放題してた。
     メンバーでボディペイントして松本市内を練り歩くとか。
     白塗りして中原中也を松本パルコの前で朗読するとか。
稲田  いやだなぁ(笑)。
     信大ってそういう変な人ばかり集まるんですか。
清水  常にそういう人ってどこにでもいるんじゃないですか。
稲田  そうかなあ。
     そういう人として中学高校のときはどう過ごしていたの?
清水  妄想してた。田舎の高校生だったから。
     月に一回大阪に行って、レコード屋を漁って分からないなりに聴いて妄想したりとか。
     それで大学に入って一気に行動力がついて自由になった。
稲田  清水さんて信大の教育学部でしょ?
     松本で一年やって、二年からは長野だよね。
清水  うん。でも、留年したしね。
稲田  敢えて?
清水  うーん、演劇と音楽で忙しかったし、まあいいかって感じでしたね。
     当時はバブルだったので周りも余裕な雰囲気だったし。
     松本での二年は音楽とか演劇を思う存分やった。
稲田  それで進級して長野に行くんですよね。
     そこでも音楽や演劇をやったの?
清水  長野は規模としても小さいし、先生になるための勉強が忙しかった。
     松本みたいに人が多くなくて、やりにくかったです。
稲田  そうえば、清水さんは何で教育学部に入ろうって思ったの?
清水  祖父が教師で、先生になるのがいいかなーって思ってた。
稲田  ふーん。それじゃあ、大学生のころはいずれ先生になるだろうなって?
清水  迷ってた。
     何となくアーティストになりたい!って思ってたんだけど。
     アーティストって何かも分からずに。絵を描きたいとか、音楽がしたいとか。
     表現することを生活の糧にしたいと思ってたんだけど、どうしたらいいか分からないし、
     どう動けば仕事になることに近づけるのかも分からなくて、
     見本になる人もいなかったから、具体的な術がわからなかった。
稲田  うん。
清水  でも、学校が好きだったから。小中高と。
     小学校か高校の先生もいいかなーって迷ってた。
稲田  え! 好きだったんだ。
清水  うん。大好きだった。
     小中高の卒業間際の三学期になってくると朝早く学校に行くんですよ。
稲田  もっといっぱいいたいから?
清水  うん。一日一時間多くいれると、一週間で六時間増えるよっていうくらい。
     受験勉強も学校の図書館に行ってやって、後輩と会ったりするとか。
稲田  そうなんだー。すごく意外。
     ぼくはてっきり、変わった趣味の人同士で固まっていた学生時代かと思っていましたよ。
清水  いやー。そういうんじゃなかったな。
     ヘンなものは好きだったけど、自分のいる環境を愛そうとする癖があるんですね。
     きっと同じですよ、今、自分の街が好きっていって、そういう活動につながってるのと。
稲田  ああ、なるほど!
     そういうのはどういう資質で始まるんですか。
清水  分かんない。
     性格じゃないかな。
稲田  へえー。
     ぼくはそういう「自分の街を愛する」という気持ちを
     リアルに知るようになったのが本当にこの一、二年なので、
     清水さんが自分の性格として身につけてこられたとういうのが想像できないんです。
     スイカを食べたことがない人にスイカの味を想像できないように。
清水  分からない人には分からないのかもしれませんね。
稲田  ここの一、二年でなんとなくスイカという物の存在を知って、
     興味を持ち始めているっていう感じなんですけど。
清水  自分はスイカからのスタートだから。
     なんで信大の人たちが作った歌が好きになったのかも分からないし、
     同じころに実家のそばにある超小さいライブハウスのアマチュアバンドが大好きだったとか、
     高校時代の友だちのバンドが好きとか、学生の8mm映画が好きで今もビデオを見返したりしてるとか。
     元々は根っからのアマチュア好きなんですよ。
稲田  へえー。
清水  今はけっこう違うけどね。元々はそうで。
     足りない環境で頑張ってやってる表現が好きで。
     上から目線とかじゃなくて、多分すごく共感するんですよ。
     裏返せばメジャー嫌いというか。
稲田  学校の先生に向いている気がしないでもないですね。
清水  テレビとか大嫌いで、
     顔の見える人が顔の見える人に対してやっていることが好きだったんです。
稲田  うーん、なるほど。
     それで、充実の松本キャンパスから勉強が厳しい長野に移りますよね。
     長野では音楽とか演劇とかどうしてたんですか?
清水  だから、長野でネオンホールをやったんですよ。
稲田  あ! そういうことになるんだ。
清水  うん。松本にいたらやらなかった。
     そういう場がないから自分で作ろうって。

(ロングインタビュー 信大からネオンホール編 つづく)


歌の世界
信州大学児童文化研究会の腰原仁志さんらが1980年代半ばに作った一連の曲を指す。(清水)

信大軽音楽部
その名の通り、信州大学の軽音楽部。
webサイトによると「部員は50人を超す信大内軽音サークルの中でも大所帯を持つモンスターサークル!」とある。
そうなのか。
ネオンホールのライブに行くと「ビートルズ研究会」のバンドをよく目にするが、
当時は演奏活動を行うサークルではなかった。(この二行、清水)
そういえば、7月17日のイベント「スーパーネオンホール'11 サマー」に出演する
ゴーグルエースは信大軽音楽部出身である。

舞沢智子
学生時代に清水らとヒエラルキーというバンドを結成、
当時の名前は「竜マチ子」。
1990年代から現在に至るまで松本市を中心に演劇活動を行っている。
「お病気シアターリュウマチ」「劇団ちまうり」
「演劇実験室経帷子」「演劇実験室カフェシアター」などに出演。(清水)

演劇実験室 経帷子
松本市を拠点に活動する劇団。寺山修司など、いわゆるアングラ演劇を制作している。
市内の劇場での公演の他、街頭でのパフォーマンスも行う。(清水)

演劇実験室カフェシアター
70年代前半に寺山修二率いる「演劇実験室 天井桟敷」に入団された中沢清さんが、
長野に戻って家業を継ぎながら旗揚げした劇団。
フリーペーパー『日和』に清水さんが連載している「ナガノスタイル」72号に詳しい。
清水さんの筆致を抑えながらも、中沢さんの「アングラ魂」に気持ちが熱くなっている文章が読めます。

※(清水)表記は清水さんが注釈してくれたもの


2011年7月11日月曜日

清水隆史ロングインタビュー 信大からネオンホール編(一/五)

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七月一日、奈良堂にて。
黒いTシャツ姿で清水さん登場。

稲田  あ、どうも。
清水  遅くなってすみません。
稲田  いえいえ、お忙しいところに申し訳ないです。あれ、上半身がかなり締まってきましたね。
清水  ああ、筋トレしてますからね。
稲田  うーむ、本気ですね。
清水  本気ですよー。今年の後半のことを考えると嫌な夢を見て朝の四時に跳び起きたりね。
稲田  えー、漫画みたい。
清水  ほんと、漫画みたいですよ。

―これからしばらく、今年の後半の活動についての話題になりますが、それはまた別の話。
  でも、個人的にもとても楽しみです。

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稲田  今日はですね、清水さんがネオンホールをいかに始めるにいたったかという話をお聞きしたくて。
清水  はい。ええ。
稲田  いま、長野市善光寺の門前界隈は古い家屋を活用した方法論がとても活性化していますよね。
     人が住むところとしても、お店を開くところとしても。
     ボンクラや1166バックパッカーズ、マゼコゼ、FLAT FILEがこの二年でぞくぞくとスタートし、
     今年の六、七月はBook &Cafe ひふみよ、遊歴書房、チャンネルブックスと三店も本屋が開店となった。
     で、ぼくは傍観者に過ぎないんだけど、
     「これはいったい何なんだ」と驚いたんです。素直に。
清水  はい。
稲田  いま目の前で起こっている「門前の動き」について、
     何が起こっているのかということがぼくには捉えられない。
     興味は湧いてきたんです。でも捉え方が分からない。そもそも方法論を持ってない。
     そんなときに、「あ、清水さんの視点を借りて観ればいいんだ」って気づいたんです。
     一方的ですけど。
清水  はい(苦笑)
稲田  清水さんはネオンホールというライブハウスを二十年ほど続けていて、
     編集室兼喫茶店兼ギャラリーのナノグラフィカも十年近くやってられますよね。
     共に使われてなかった長野市の家屋を利用して。
     また、自分たちの街をテーマにした『街並み』という冊子もあって、
     自分たちが住んでいる街を基点にした活動をずーっと続けている。
     しかも活動と暮らしがマッチングしていて、門前界隈の方たちと暮らしに根づいた
     近しいおつきあいも重ねている。
     清水さんと出会ったときには「清水さんってそういう人なんだ」と思っていたんだけど、
     今の門前の動きに興味を持つと、いったい清水さんはどんな考えで、
     どんな流れでこうなったんだろうって知りたくなったんです。
清水  ええ。
稲田  前置きが長くなりましたが、清水さんが長野に来てから過ごした
     この二十年を聞かせてもらうことで、長野の門前の今を見る視点が
     一つ得られるんじゃないかとそう思っているんです。
     あと、本心をいうと清水さんが過ごした二十年に
     個人的にとても興味があるんです。
     清水さんは奈良の出身でいいんですよね?
清水  ええ。奈良といっても文化的にはほぼ大阪って感じでしたが。
稲田  いつから音楽って好きになったの?
清水  うーん、変な道に入ったのは中学くらいからかなあ。
     レコード屋にある中でちょっと(主流と)外れたレコードを探して何件もハシゴしたりとか。
     地方都市だし、今ほどマニアックな時代じゃないから
     見つけられるレコードも高が知れてるんだけどね。
稲田  普通さ、音楽を好きになるきっかけってあるじゃん。
     お兄ちゃんの影響とか...
清水  だからぼくがその兄ちゃんだった(笑)。長男だし。
     弟にいっぱい聴かせた。
稲田  あ、そうなんだ(笑)。楽器もそのころから始めてたの?
清水  高校一、二年くらいかな。
稲田  誰かに誘われたの?
清水  友達の兄貴が信大生で、帰ってくるとコード譜をくれるんですよ。
     それで弾いてみようかなって。
稲田  もうそこから信大が(笑)。そのときはフォークギター?
清水  そうそう。それで高校でバンドを始めて。軽音とかは入ってなかったんだけど。
     漫研で部長だったんだけど。
稲田  え? 高校で漫研があるの? めずらしいね。
清水  そうかな? オタクっぽくはなかったけど。同人誌とかも出してたよ。
     ガロとか好きだったんで、難解な漫画を描きたくて。描いては途中で止めたりしてた。
稲田  えー、その頃からそういうの好きだったんだ。
清水  絵は中学の頃から好きで描いてたんですよ。
     でも、中学の頃ってそういうの馬鹿にされるからさ。
稲田  うんうん。そういう仲間がいないもんね。
清水  一人だけそういう話ができるやつが、信大に行った人の弟で親友だった。
     彼は小説を書いていて。
     ぼくとはタイプが違うけどすごく仲が良くて絵を見せたりしてた。
     それで高校に入って漫研があることを知って、「人前で絵を描いていいんだ!」って。
稲田  おお。うれしいよね。
清水  先輩たち同人誌出してるよーって。
     本を作って人に見せるって発想は無かったと思って。
稲田  楽しかった?
清水  楽しかったよ。グループ誌みたいの作って学祭で売ったりして。
稲田  ふーん。そういえば、さっきの友達のお兄ちゃんってどんな譜面をくれたりしたの?
清水  信大の
稲田  信大の!?
清水  信大の人が作ったフォークソングみたいなやつ。
     オリジナル歌集みたいなやつ。
稲田  プロのじゃないんだ!(驚)
清水  あ、歌える歌としてはチューリップとか好きだったよ。
稲田  その頃でも古いよね。
清水  古い古い。古いものとして好きだった。
     高校当時のチューリップはもうシンガーソングライターになっていたけど
     そんなに好きじゃなくて、七十年代前半のチューリップが好きだった。
稲田  自分でもそういうの演奏しつつ、信大生のもやったってこと?
清水  ううん。信大生の方が先だったし、メインだった。
     チューリップはサブって感じ。
稲田  メインなんだ! 楽しかったですか? 信大の歌?
清水  すごいいっぱい歌があるんですよ。ニューミュージックみたいなやつが。
     松本がテーマになっている歌も多くて。それがすごく好きだった。
     その頃からそういうミュージックに興味があったのかもしれない。
稲田  ふーん。
清水  ある一部の人しか知らないことを、ある一部の人が歌うってことにけっこう感動して。
     『松電バス賛歌』とかあるんですよ。
稲田  (笑)
清水  松本のことって知らないのに、それを聴いて、
     そういう行為ってすごくいいなー美しいな―って思って。
稲田  渋い高校生ですねー。
清水  まだ見ぬ松本に憧れて。
     松本が好きっていうよりも、歌に歌われている町が好きで。
稲田  (笑)。それで信大を受けようってなったんですか?
清水  なったなった。完全になった。

(ロングインタビュー 信大からネオンホール編 つづく)


ボンクラ
長野市善光寺門前の蔵を自分たちの手で再生し、オフィスや店舗として活用している集団。
メンバーは建築士・編集者・デザイナーたち。
深遠な考えをもって活動しているようにも見えるし、
面白いじゃんという思いで動いているようにも見える不思議な団体。

1166バックパッカーズ
いまや何年も前から開店しているかのような存在感をもつ長野市西町のゲストハウス。
しかしまだオープン一年なのだ。
善光寺に訪れる外国からのバックパッカーたちのニーズにみごと応えた(と思う)。
宿なのにさまざまな人が訪れては(宿泊客にあらず)酒を飲み語り合う不思議な場所となっている。

マゼコゼ
長野市長門町の古い蔵を活用してカフェMAZEKOZEをオープン。
ここの二階は蔵ならではのやさしい光と影の折り合いがとても気持ちいい。好きです。
RIKI-TRIBAL(リキトバル)という屋号で美術全般のお仕事やカフェ経営を御夫婦でされている。
ぼくはここの『マゼコゼ日記』というブログの熱心なファンである。好きです。

FLAT FILE
長野市桜枝町の古民家を活用してポスターのセレクトショップ、額縁のオーダーメイド、ギャラリーを経営されている。
同店でオーダーした額縁を持っている友人はぼくのまわりに多い。実はうらやましい。
とっても気になるお店なのですが、お噂だけでまだ行けてないのです。行きたい。

Book &Cafe ひふみよ
長野市三輪の元酒屋をこつこつリニューアルして2011年6月にオープンした古本&カフェ。
一階が古本屋、二階がカフェになっていて、お茶と一緒にゆっくり本が読める。
二階の大きな窓と、卓袱台&畳のカフェスペースの居心地の良さは素晴らしい。
ぼくは二階で店主と飲み会をした際に朝まで熟睡してしまい、慌てて帰宅したことがある。
しかし、この店名は秀逸。

遊歴書房
ボンクラのオフィスがある古い蔵でオープンした古書店。
方位磁石を彷彿させる店の作りと本棚。骨太な本のセレクト。
四面を天井一杯まで本棚で取り囲むのは本読みたち共通の夢だろう。うっとりしてしまいます。
同店のテーマソングをオープニングにお披露目した安斎くん
やはり門前の古い家屋に気持ちよく手を入れて住んでいる。

ch.books
長野市南県町の元カメラ屋をリニューアルして2011年7月にオープンした本屋&編集室&デザイン室。
一階が本屋、二階が仕事部屋となっている。
一階ではアートと旅をテーマにした本をセレクト。グレゴリ青山が好きなようだ。
(と書いたら、グレゴリ青山はもう二冊売れて残り二冊だから修正求むと連絡が来た。素早い。あと二冊だそうです。ちなみに売れた二冊はぼくが買いました。面白かったです)
奇しくも同店のメンバー全員がぼくの前職の同僚だった。
オープニングパーティには行けなかったのだが、
用意された酒の量が尋常ではなかったという評判を残した。

ネオンホール
清水さんが信大生時代に友人たちと立ち上げた長野市権堂の小劇場かつライブハウス。
来年二十周年を迎える。
『信大からネオンホール編』では如何にネオンホールを始めたかの話になる、はず。

ナノグラフィカ
清水さんとタマちゃんたちが立ち上げた長野市西ノ門町の編集室兼喫茶店兼ギャラリー。
来年十周年を迎える。
次章の『ネオンホールからナノグラフィカ編』で如何にナノグラフィカを始めたかの話になる、はず。
独特の存在感を発した企画・発行物を実現しつつ、西ノ門町の住人としてみごとに溶け込んでいる。
タマちゃんがナノグラフィカで自宅出産した福太郎(元気な五歳児)が
これからどんな人間になるか個人的に楽しみ。

『街並み』
2005年から編集発行し続けているナノグラフィカの小冊子。
カラー40P、モノクロ8P。現在で41号に至る。
息の長いファンも多く、1166バックパッカーズでは外国の方も興味深く手に取られるそう。
「どうしてこんな色で写真が撮れるんだろう?」と不思議がる外国の方もいたそうな。

2011年6月11日土曜日

震災後、宮城・福島に行ったこと。


お久しぶりです。

web制作の仕事をしていながら、ずうっとブログの更新ができずにいました。いろいろ原因はあるのですが、やはり三月十一日の震災の影響がぼくにとってはとても大きいものでした。

被災された方々の日常はいまだ回復せず、東京電力の原発崩壊もその収束が見えず、政府からの勇気と光を提示するメッセージも届かず、三ヶ月前と何が改善されたのか分からない状況だと思います。

それでもぼくたちは生きているし、このろくでもない状況に茫然とする期間から、現実を受け止め、教訓を学び、前に進まなければならないのだと思うようになりました。

ぼくは四月十日から一週間、会社にお休みをいただき、宮城県石巻市にボランティアに行かせていただきました。
現地では学校の体育館に避難されている方へお湯を配ったり、津波に呑みこまれた個人住宅のヘドロ撤去や家屋整備などをやらせてもらいました。実際に現地に行ってさまざまな方とお会いし、被害を受けた現場を見ることで学ぶことも多い一週間でした。
現地であたたかく迎えてくれたボランティアスタッフの皆さん、いろんなお話をしてくださった被災地の皆さん、忙しい時期に我儘を許して一週間行かせてくれた会社の皆に本当に感謝しています。

宮城・福島から帰ってきて、何人かの方に「被災地のことを話してほしい」と促されたのですが、ぼくはなかなか話せませんでした。話してほしいと言ってくださる方たちは被災地のことを知ることで自分もできることがあるんじゃないかと思われたりと前向きな視点で言ってくださる方もいらっしゃったのにぼくはうまく話せませんでした。

ぼくは「被災地の方のためじゃなく、自分のために行った」という思いが強く、それをうまく説明できませんでした。

そんなとき、ある人に「被災地のためじゃないなんて理解できない。ちゃんと説明してほしい」と言われ、自分の言葉でどういえば伝わるのかとしばらく考え込みました。

多くの方もそうだったと思いますが、ぼくは三月十一日からの一ヶ月は震災のことしか考えられませんでした。寝ても覚めても頭の中は震災のことでいっぱいでした。呪いのように。

テレビの向こう側で津波に呑み込まれ人が亡くなっていく姿、原発がどんどん崩壊していく姿にぼくは茫然としました。波に呑み込まれていく人々はぼくであったし、絶望的に崩壊していく原発はぼくが容認してきた社会でした。三月十一日を境に、それらはぼくの中に入ってしまいました。否応なく。大きな影と共に。

なかでも大きかったのが、東京電力の原発崩壊でした。原子力発電所が日に日に崩壊していく姿を見て、福井の方の被害地域が日に日に拡大していく状況を見て、「これは、ぼくも共犯者じゃないか」と思いました。

ぼくは三十七年間生きてきて、原子力発電に対して、またその管理システムや監視体制に対して明確な態度を示さず、既成事実として認知してきました。崩壊していく原発と拡大していく被害は、ぼくが容認してきた社会システムの結果でした。

原発容認派か否定派かという話ではなく、目の前でどんどん崩壊していく東京電力の原発は、自分が内包された社会であり、その社会に対して無関心という票をぼくが投じてきた結果でした。その点において、ぼくは世界を崩壊された者であり、同時に共犯者でした。

ぼくは幸運にも直接被害を受けなかった。そして、世界はまだ続いていくらしい。
ぼくは共犯であることを認め、そこから学び、再出発しなくてはいけない。生きていくなら。
そんな気持ちで四月を過ごし、五月が通り過ぎ、六月を迎えました。
あの三月十一日から、今日で三ヶ月を迎えます。

この期間に御承諾いただいた仕事として、太陽光発電においてスペースコストやメンテナンスコストを削減でき、山岳地帯や海岸沿い、ビルや既存インフラなどでの利便性が高い両面発電が可能なシステム、採光型両面太陽電池「サンジュール」の特設webサイトを制作させていただけることになりました。(長野市の矢木コーポレーション様)
今の自分にできる精一杯のことと、多くの方の力をお借りして、良いものを作りたいと思います。

そして、今日から改めて日々の楽しいことや胸にぐっときたことなどを綴らせていただきたいと思います。
これからもどうぞよろしくお願いします。


床下のヘドロ撤去をさせていただいた宮城県石巻市ご夫婦と孫のコテツくん。ご夫婦の人柄もあって楽しい時間でした

四月十一日から一週間、宮城・福島へボランティアに行った間のツイートをまとめました。
よかったらご覧ください。

http://togetter.com/li/147174


2010年12月13日月曜日

ここ五年くらい、ずっと気になっていたことがある。


ここ五年くらい、ずっと気になっていたことがある。

生業として料理人の人生を歩んできた武士たちのことだ。

おそらく、江戸時代。
為政者が固定し、政治的に安定した時代に、
料理人という職業が武士組織内で継続化されただろうとぼくが勝手に思っているのだ。

わかりやすく言うと、「山田大名の料理は代々鈴木家が拝命してきた」みたいなことです。
もっとアイコン的に言うと、「江戸城で徳川家の食事を代々料理してきた武士」ですね。
ぼくはそんな彼らにすごく興味がある。

彼らはアイデンティティとしては武士である。
しかし、生業としては料理人である。

この二重構造。

武士の誉れを抱きつつ、料理人として腕を磨く。
時の最高権力者に一番近く、武士として一番遠い。

同じ武士組織でも法律や人事や経理のようにマクロな面で影響力を持つことはなく、
最高権力者に一番近く、武士として一番遠い。
しかし、催事において失敗することはおそらく死を意味する。

彼らはどう生き、どう腕を磨き、何に悩み、屈辱を感じ、矜持を持ち、死んでいったのか。

読みたい。
今すぐ読みたい。
過去の古文書でもいいから読みたい。

そんな気持ちでじりじりしていたら、
wikipediaでこんな一文に出会った。
平安時代貴族の社交儀礼の中で発達した大饗料理が、
公家風の料理形式として残った料理である「有職料理(ゆうそくりょうり)」という
言葉を調べていたら下記の一節があったのだ。

*   *   *   *   *   *

江戸時代初期、徳川家光が行った二条城での後水尾天皇御成行事の際、天皇家側の料理人2名(高橋家、大隅家)、徳川幕府側の料理人2名(堀田家、鈴木家)の他に京都の町方の料理人から生間(いかま)家が抜擢されて調理に携わったことから、生間家は八条宮家の料理人をその後代々拝命することになる。明治時代になり桂宮家(八条宮家の後裔)が子孫断絶により絶家したため、生間家も下野し、その料理法は京都の民間の限られた料亭に伝えられた。
現在、宮中でも皇族の結婚式などの中継で会席料理などとは大きく異なる盛りつけの日本料理が見られることから、生間家が伝えた物とは別の有職料理が伝えられている物と思われるが、外国要人などの接待にはもっぱらフランス料理が使われており、極限られた儀式でしか食べられない物のようである。

wikipediaより抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%81%B7%E6%96%99%E7%90%86

*   *   *   *   *   *

徳川家光が主催した天皇との食事会!
天皇家側の料理人2名、徳川幕府側の料理人2名、京都町方の料理人!

さらっと書かれていますが、これはドラマじゃないですか!
天皇家、徳川家それぞれの料理人はどんな覚悟でこの料理会に挑んだのか!
どんな料理を作ったのか!
献立の記録は残っていないのか!
町方の料理人は存在感をどう見せつけたのか!

すっごく知りたい。
読んでみたい。
誰か書いてくれないかな。

本屋大賞を受賞した『天地明察』 は和算と太陽暦をモチーフにした
最高に胸が熱くなる人間青春譚だったけれど、そんな一冊になりえるドラマだと思う。
冲方丁さん、書いてくれないかな。

ぼくたちは毎日を泣いたり笑ったり生きているけれど、
きっと百年前も三百年前の人たちもそう生きてきて、
もしかしたら今のぼくらよりもっと色濃く生きてきて、
そんな彼らの生きざまを見ることができるのが読書の醍醐味じゃあないかと思うんです。

それは知識として知った方が得だとか、
30分でわかる武士料理人の歴史とか違うよね。

「ただ読みたい」それだけ。

でも、読書なんて趣味なんだから、本来そうだと思うんです。
なぜだかこの国では「本を読みなさい」「本を読むと役にたつ」なんて声が
為政者やメディアから出てくるけど、そんなことは一側面にすぎないのに。

鉄道好きが電車のことを知りたくてたまらないように、
ぼくも興味ある本を読みたくてしょうがない。
読書も鉄道もプラモデルも編み物も映画も音楽も落語も
あらゆる趣味は「偏愛」という一点において等しいと思う。

ぼくは心底そう思っているんです。

国の国民読書年や学校の読書感想文なんていう
偏愛のかけらも感じない施策なんて吹っ飛んじゃえって思うくらい。

wikipediaで出会った一文に血沸き肉躍った一日でした。